第3話 ひび割れ水宝石

 船が傾く。それに応じて奴隷の何人かが床を転がる。もちろん俺は転がった内のひとりだ。

 今日はよく揺れるが、今の揺れは特に大きい。転覆しないか心配になるほどだ。


 俺とグラスコの会話を聞いていた面々は、それぞれ勝手に想像を始める。ひび割れた水宝石クィヴェリアがすぐ近くまで来ているのだと。

 恐怖からどうしても声が漏れた。


 どうやら他の奴隷たちのロープを切る余裕はないらしい。丁度外が騒がしくなってきたところだ。甲板で船員が叫ぶ声も、こちらへ急ぐ足音もとにかく大きい。


 立ち上がり、ドアの前で待つ。すると予想通りグラスコが顔を出した。


「おいおまえ、ひび割れた水宝石クィヴェリアから逃げられるだとか言ったよな!」

「言ったとも。君たち船員の中に、対抗できる実力者がいるなら、倒すまで行けるかもしれないぞ」

「んなのいるわけねぇだろ。つーか馬鹿言ってる場合じゃねぇんだ。いいから来い!」

「そうせっつくな。ひび割れた水宝石クィヴェリアは逃げやしないよ」

「逃げてくれんなら、それ以上はねぇんだけどな」


 やはりひび割れた水宝石クィヴェリアが出たか。グラスコの慌てた態度で、奴隷たちは戦慄する。自らの身分を悲しむ余裕はなくなっていた。

 この世界が夢だと知っている俺だけが、唯一平常心でいられる。


 俺はグラスコに首根っこを捕まれ、引き摺られるように甲板へと急いだ。


 夢の中だが、初めて外に出る。穏やかな昼下がりと言うに相応しい陽気だ。ぽかぽかのおひさまが気持ちいい。

 地平線まで続く水面。頬を撫でる穏やかな風。潮の香りが鼻をくすぐる。


 俺が乗っている船は帆船だった。見上げてみると、広げられた帆がある。これで風を受け進むのだ。

 しかし今日の風はとても静かである。無風ではないがそれに近い。この船は目的地まで急いでいると聞いた。そうしなければいけない理由はこの天候にもありそうだ。


 ところでひび割れた水宝石クィヴェリアはどこだろう。見当たらないのだが。

 首を左右にやって水面を探すが見つからない。その間もグラスコは俺を引っ張っていた。突然ぽいと投げられる。


「こいつか?」

「はい」

「信用できるのか?」

「正直なところはどうだか。ただマトモなガキじゃあないですね。間違いなく観察眼は俺よりも尖そうで」

「そうか。ほら、ガキ、立て」


 そう言われても、急には難しい。俺は床に額を打ち付け、頭を抱えているところなのだ。

 とりあえず、立つよう要求する男に対し、スキル【臨摸】を使った。

 手元に現れたカードを立ち上がりつつ読んでいく。


―――――――――――――――――――――――――


 名前:スーデス


 レベル:74

 スキル:【博識】【ソードマン】【起死回生の一手】【遠視】

     【聴力上昇・小】【筋力上昇・中】【脚力上昇・小】


―――――――――――――――――――――――――


 概ねレベル相応ってところか。【起死回生の一手】とは不利な状況下で、相手の防御力を無視できる可能性があるというスキルだ。

 うまく発動すれば強いが、確率スキルに安定はない。進んで取る人はほとんどいなかった。

 強さという面で見れば、グラスコと大差はなさそうだ。レベル1の俺と比べたら、圧倒的に強いのだけど。


 顔を上げると、飛び出しかねないほどに目を開く男がいた。

 白っぽく汚れた黒い髪をたくし上げ、後ろで纏めている。晒された額にはシワが寄り、口元は真一文字に結ばれていた。青い瞳は俺を捕まえたまま離さない。正面で腕を組み、その袖口からわずかに露出する生傷が痛々しい。

 意匠が凝った装いだけで肩書がよくわかる。こいつがスーデス。この船の船長だ。


「おまえが馬鹿でも嘘つきでなければ構わない。答えろ。ひび割れた水宝石クィヴェリアについて詳しいそうだな」

 とりあえずしっかりと立ち上がり、膝のホコリを叩いて払う。

「詳しいって言っても人並さ。倒すならどういう手順がいいか知っているってだけだ。奴らの生態についてなら他を当たってくれ」

「悪いが冗談に付き合っている時間も余裕もない。次にくだらないことを言ったら海に叩き落とすぞ」


 完全な脅し。間違いなく本気の言葉だった。余裕が持てる状況ではなさそうだし仕方がない。

 俺はその威圧的な態度に息を呑み、表情を真剣なものに変える。


「わかりましたよ。こんな沖で海水浴はしたくない。浮き輪があってもね。とりあえず状況を把握しないと碌なことは言えません」


 船長の横を抜け、船尾に置かれた木箱に足を乗せる。そこから背伸びをして海を覗くと、それらしき影を発見できた。


 右斜後方。明らかに巨大すぎる、黒い影が迫ってくる。

 どうやら何も言わずとも、船は最低限の動きができているようだ。ひび割れた水宝石クィヴェリアは旋回が苦手で、直進と比べると速度が出ない。逃げるなら斜め方向に進むのがいいのだ。


「ちゃんと斜めに進んでいるみたいですね」

「問題はそれでも追いつかれるってことだ。俺には追いつかれた後の対処がまるで思いつかない。もっと風が吹いていりゃあな、そうだったらまだマシだった。漕ぎ手はオールの数以上は増やせないしな」


 速さが出せないのは致命的だ。海ではどうしてもひび割れた水宝石クィヴェリアの独壇場になる。追いつかれれば好き放題にやられるだけだ。

 足が動かない以上、倒すくらいの気持ちで行かなければやられる。その方法にも心当たりがある。

 しかしこれを伝えるより先に、船長に訊いておかなければいけない。


「その前にひとついいですか?」

「余裕がないって言葉を忘れたか?」

「嘘つきでなければ馬鹿でもいいんでしょう? 簡単な質問だから答えてよ。どうして俺を信用するの?」


 子どもが何を言っても、戯言として切り捨てるのが自然に思えた。意見を求める船長が、俺には不気味に見えたのだ。

 その船長は素っ頓狂な顔をする。さっきの威厳は何処へ行った?


「グラスコにただのガキじゃないと言わせたおまえは、何かしらを持っているんだろう。俺は部下を信用している。だから話を聞くことにした」


 俺はこの船長を前から知っていた。トリプレッツガーデンのプロローグにしか出てこない、すぐに死んでしまうモブキャラとして。見せ場なんて欠片もなかったから知らなかった。


「あんたってそういう人だったんだ」


 俺は奴隷として彼に運ばれている身だが、そこそこ好きになれそうだ。


「これで満足か?」

「もちろん十分だ。でも助言をするにも答えようがない。とりあえず積んでいる物資と、この船の兵装について知っておきたいんだが」

「我々が運搬しているのは、武器と織物とおまえたち奴隷だ。その他、水と食料だな。装備は左右に大砲が二門ずつ。安物の船だったんでね。それだけだ」

「砲弾は?」

「見ての通りだ。0.5メートル程度のしか打てない。数は5発ってところだ」

「たったそれだけか。まるで沈むために用意された船みたいだ」

「やはり厳しいか」


 船長が打つ手がないと言った理由がよくわかる。陸は遠い。追い払える装備もない。気を引く囮も用意できない。船長を除くと、船員は50レベルから60レベルの集まりで、正面切っての戦いも無理。


「でもギリギリ行けるかも?」

「本当か?」

「大砲が錆びてて可動域が狭すぎたりしなけりゃね。あとは大砲が真っ直ぐ飛ぶかどうか。真っすぐ飛んでも当たらなければ意味ないけど」


 話をしていて気づかなかった。水面の影がすぐそこまで迫っていることに。

 波がうねる。船は傾き、俺は空中へと投げ出された。船長に腕を掴まれて助かったが、それがなければ海に落ちていたかもしれない。


 俺が船に足を戻したとき、船全体を黒い影が覆い、太陽が隠れた。


「これが、ひび割れた水宝石クィヴェリア


 全員が見上げ、存在を認識する。船をまたぐように跳ぶそれは、あまりにも大きい。口元だけでこの船と同等くらいの大きさがある。

 透明な皮の内側に水色の皮膚。その皮膚には割れたガラスのように放射状の模様が入っている。顎に蓄える金色の髭は、日差しを取り込んで輝いた。

 ヒレから海水が滴り、船の甲板を濡らす。低い鳴き声を響かせながら、頭上を通り過ぎた。


 体が震える。予想を遥かに超える大きさだった。歓喜に震える。生臭さが鼻につく。笑顔がやめられない。まるで現実のような臨場感だ。


 俺は無意識のうちに、スキル【臨摸】を発動していた。手元に現れるひび割れた水宝石クィヴェリアのカード。そこに書かれていた数字に顔をひきつらせる。


 レベル159。


「ハッハッハ。無理!」


 保証する。どうあがいても勝てない。

 そんな相手を前に、清々しくて声を上げ笑った。笑うしかできなかった。

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