プロローグ

 それは全長5メートルはあった。凶悪な相貌は見るものを震え上がらせ、唸り声は力なきものを屈服させる。漆が塗られたような体毛は、剣を弾くほど強靭で、鎧を貫くほど細く鋭い。

 苦悩の残滓と呼ばれる大狼だった。


 狼は牙を剥く。唾液の代わりに藍色の液体が染み出して、牙の先端から滴り落ちた。それは大地を焼き、白煙が上がる。信じられないほどの毒性だ。

 ここは土地そのものが毒である魔界の奥底である。居るだけで蝕まれる死んだ地だ。その土を焼く狼の毒には、耐性があっても触れたくない。


 俺は槍を構えながら距離を調整する。金色の瞳は瞬きを忘れたかのように、ずっとこちらを見つめて離さなかった。

 もう戦い始めて10分は経っただろうか。そろそろ決着を付ける必要がある。持久戦はこちらが不利だ。この場では立っているだけで毒に侵される。

 ポーションを固めた丸薬を口に放り込みながら、細く息を吐いた。


 行くか。


 雑草すら根付かぬ地に、障害物は存在しない。まっすぐ通る視線に沿って、狼に槍を突き立てた。

 それに対し、狼は一歩退いた。こちらの勢いが衰えたところで踵を返し、大きな顎を広げる。

 俺は飛び散る毒液を避けながら、牙の間に槍を引っ掛けた。顎の力を借りて、上空に飛び上がる。

 くるりと槍を回してから、下方にいる狼の首筋に穂先を向ける。

 そして重力に任せて貫いた。


 どす黒い血液がこぼれ出す。狼の体毛が足を貫こうと貼り付いて、背中で槍に力を込める。

 ずぶりずぶりと挿し込んで捻り、更に深く掘り進む。

 狼は激痛に暴れ、転がりまわる。その衝撃で弾き飛ばされた。

 しかしもう遅い。槍が分け入った傷口はあまりにも深く、滝のような出血は止まらない。


 もはや飛びかかる余力もないようだ。狼は重力に負けて足を折る。最後まで恨めしそうに金色の瞳を光らせながら死亡した。


 さあ、ここからが本番だ。戦っていたときとは別種の緊張感に包まれる。


 もはや動かない狼の前で、祈るように手を合わせた。すると狼の肉体は、次第に薄くなって消えていく。

 残ったのは、15本の体力ポーションと28本のマナポーション。剣が1本に、毒液と体毛を始めとした素材がごっそり。ドロップアイテムはそれだけだった。

 目的としていた物を探すが、何度確かめても見つからない。失意で心が満ちていく。


「まだ出ないのか」


 俺の目の前にはゲーム画面が映し出されるモニターがある。それから目を離し、現実へと帰ってきた。

 ヘッドホンを投げ捨て、天井を仰ぎ見る。

 今ので何体目だっけ。通算で100体は倒している気がする。60体を倒したあたりで数え間違えをして、そこからは数えていない。


 武器を製作するための素材が必要だった。そのためにここ数ヶ月はあの狼を乱獲している。目的は牙だった。顎いっぱいに生えているのに、たったひとつすら落ちやしない。

 ドロップ率は1%前後と聞いた。この確率を思えば納得できるが……。3体程度であっさりとドロップさせた知り合いが居る身としては、100体倒してもまだ出ない現実が辛かった。その知り合いが「簡単に出るよ」なんて澄まして言うものだから余計にだ。


 昨日から充電ケーブルに刺さりっぱなしのスマートフォンを手に取る。ホーム画面の少女の絵は無視して、画面上の時計を見た。深夜の1時をまわっている。


「寝れるな」


 苦悩の残滓が次に出る時間は朝の6時。あと4時間以上ある。


 ゲームへ手を戻し、最寄りの安全地帯までキャラクターを移動させた。このまま一晩中放置しよう。モニターの電源だけ落とせばいい。

 目覚まし時計をセットしてから、モニターのスイッチに触れる。すると部屋は真っ暗闇に落ちた。


 精神的に疲れた体を引きずって、ベッドへと潜り込む。やはり布団の中はいい。体を丸めてタオルケットを抱きしめた。

 パソコンのファンの音がする。救急車のサイレンが木霊する。

 次第に意識が続かなくなり、夢の底へ落ちた。



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 トリプレッツガーデン。これは俺が夢中で続けている、オンラインRPGのタイトルだ。

 どういったゲームか。端的に言えばクソゲーである。変なリアル思考が働いているところが尤もなところだ。


 料理を制作するだけで1時間以上、早いものでも10分はかかる。装備の制作となると数日掛かるなんてざらだ。

 マップは妙に広い代わりスカスカで、移動は徒歩のみ。瞬間移動の方法はない。

 遠方へ出る馬車はあるにはあるが、日に出る本数が片手で数えられるレベル。ここで言う『日』とは、もちろんリアルでの1日だ。しかも馬車が特別速いわけでもない。


 余談だが馬車を引いている生き物は馬ではない。ユニコーンのような角を生やす、厳ついアルパカのような動物だ。これを馬車と呼んでいいのだろうか。よくそれを考える。


 ここまでの要素は些細なことだ。料理に時間が掛かるなら待てばいい。遠くへ行きたいなら歩けばいい。解決方法があるからまだマシといえる。


 一番の問題はレベリングについてだろう。

 敵を倒して経験値を稼ぐという点は、このゲームも同じである。つまり強くなりたければ戦えばいい。誰でも理解できる単純な式だ。

 しかし戦闘が不可能だとしたらどうだろう。


 トリプレッツガーデンには出現制限なるシステムがある。これは戦闘エリアにて1日のモンスター出現数を管理するシステムだ。簡単に言うと、出現するモンスターの数が決まっていて、倒しすぎると敵が出なくなる。


 サービス開始初日はこのシステムにより、初心者用の戦闘エリアが2時間で安全地帯へと化けた。詰め掛けたプレイヤーが、出現数の上限まで一気に狩り尽くしたのだ。

 最弱のモンスターが絶滅したことにより、後続のプレイヤーはレベルが高い敵と戦うしかなかった。すこし強い程度であれば、うまく立ち回れば倒せないこともない。


 しかしここでもうひとつのシステムが牙を剥く。それはレベル差制限である。

 それはレベル差によって、与えるダメージと受けるダメージが変わるシステムだ。レベルが離れすぎていると、ステータスで勝っていても歯が立たなくなる。

 まあこれは大した問題にはならない。1回殴っても倒せなければ、2回殴ればいいだけだからだ。問題はもうひとつの効果にある。

 その問題とはレベルが離れている敵からの経験値が減少するというもの。これにより無理に強い敵を倒しても、雀の涙ほどの経験値しか入らなかった。


 他にも数多の嫌がらせシステムが乱立し、プレイヤーを苦しめた。結果は過疎化である。トリプレッツガーデン界隈は氷のように冷え込んだ。そのおかげで残ったプレイヤーは世界を独占でき、快適にプレイしているのだから皮肉なものだ。


 過疎が進みすぎているため、最近では他のプレイヤーを見かけると、レアドロップのように興奮する。休日に十時間以上プレイしても、自分以外のプレイヤーを見ないなんてザラだ。


 マゾヒストだと言われて以降は隠しているのだが、俺はこんな世界が不思議と気に入っている。自分でもなぜかよくわからない。飽きよりもサービス終了が先だろうと、半ば確信めいた思いがあった。

 俺は自分を飽きっぽい性分だと評価しているが、意外とそんなことはないのかもしれない……。



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『さあ、起きるんだ』


 ガンと頭を打ち付けた。ベッドから落下でもしたのだろう。

 打ったところを抑えつつ、寝ぼけ眼を手でこする。周囲は薄暗い。どうやらまだ朝ではないようだ。

 まぶたを開き、両足で立ち上がる。


「どこだここ?」


 勝手知ったる部屋ではなかった。ベッドもパソコンもない。セットしたはずの目覚まし時計は何処へ行った。

 もうひとつ気づいたことがある。目の高さが低いのだ。まるで子供のようだと感じた。この考えを後押しするように手も足も小さい。とても大人とは思えない体躯だった。


「わけがわからん」


 この部屋唯一のドアに注目した。そのドアが壊れんばかりの勢いで開け放たれる。


 現れたのは男だった。頬には傷、洗髪をしていないであろうボサボサ頭、無精髭は伸び放題だ。なんとも冴えない男である。俺はその男に覚えがあった。

 何処で見た? 何処かで……そうだ思い出した。


 男は剣を強調するために揺らしてから、声を上げる。


「うるせぇぞ騒ぐんじゃねぇ。ぶっ殺されてぇか!」


 このセリフにも覚えがあった。間違いない。トリプレッツガーデンのプロローグだ。

 見覚えがあるわけだ。モニター越しだったが、実際に見ているのだから。

 次のセリフも覚えている。


「「ったく、面倒事を押し付けやがって。なんで俺がこいつらの面倒を」」


 ということは、ここはトリプレッツガーデンの世界……。

 怪訝に顔を歪める男をよそに、俺は屈託のない笑顔を浮かべた。

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