第59話 さようなら!
「おまえ、しぶといな」
木田たちによって、老婆から引き離された。
木田の背後に、白いシーツにくるまれて、洗濯用のロープでぐるぐる巻きにされた物体が見える。微かに動いている。
「なにをしたんだ!」
高森は木田と住人を突き飛ばし、ぐっしょりと濡れたシーツを剥がした。中から美桜の顔を出した。
汚れていたが、朝日の受けて神々しいまでに美しい。
「大丈夫か?」
「はあ」
呼吸がうまくできなかったのか、しばらく空気を吸っている。
「助けるんじゃねえぞ、警官」
「そうだ。せっかく捕まえたんだからな」
「いま、見たでしょ。みんなそいつに殺されるのよ!」
住人たちはみなびしょ濡れのままだ。ほとんど眠っていない。目が血走り、やつれている。ガタガタと震えてもいる。濡れた服が朝の風で冷たくなっていく。住人たちは体を寄せ合って、なんとか寒さから守ろうとしている。
「なにを考えているんですか。バカなことは言わないでください」
人を殺しているのは自分だ、と高森は思っていた。そして自然災害に対応できなかった結果、こんな惨事になってしまったのだ。目の前の少女がどうして人を殺せるというのか。みんなどうかしている。魔女狩りのようではないか。理屈ではない、異常な状況でみなおかしくなっているのなら、とにかく引き離すしかない。
高森は、拳銃を抜いた。まったく躊躇いはなかった。住人たちを威嚇しながら、布に巻かれた美桜を引きずるようにして距離を取ろうとした。
「簡単なことだ。そのまま水に放り込めばいいだけだ」と木田。
「あなたたちが、余計なことを言うからだ!」と本荘は、ドア影で犬を抱えている藤岡夫妻を度鳴りつけた。
「だって、その子を殺すなんて……」
「おまえらよそ者じゃないか。よそ者にはわからない。ここにはここのやり方があるんだ」と木田家の祖父が度鳴った。
藤岡夫妻は犬を殺されそうになり、少女殺害にも反対して、彼らから逃げて身を隠していたのだ。
「もうすぐ助けが来るんです!」と高森。実際、ヘリの音が聞えてきている。雨はほとんど止んだ。洪水も引きはじめている。周囲はどんどん明るくなってきた。絶望は闇と共に去った。残っているのは希望だけではないか。
「みんな、助かるんですよ。揉める必要はないでしょう」
「そういうことじゃないんだ!」
木田がじりじりと迫ってきた。本荘は少し離れたところから近づいてくる。同時に二人を撃つことはできない。
どちらかを撃つつもりでいることを、高森はこのとき自覚した。そんなことに平気になっている自分にビックリしていた。
なんてことを考えるようになってしまったのか。殺すとか。射殺するとか。
人を殺すことに慣れてしまったとでも言うのか。
そのとき、「うわー」と声をあげて本荘が右手から飛びかかってきた。高森はそれ以上、なにかを考える時間はなかった。
反射的に引き金に力を入れたのだが、カチッと音がするだけだった。いつの間にか弾倉が回って弾の位置がずれていた。
本荘の手が高森の顎に入り、そのまま仰向けに倒されてしまった。本荘はそのまま高森に馬乗りになる。
「あっ、見ろ、あれ」
すぐ上に大型ヘリが接近してきてきた。まだ遠いのだが、ゆっくりと旋回しながら高度を下げてきて、いまでは爆音があたりに響き、風圧さえ感じる。
「ちくしょう」と木田もやってきて、高森からぐるぐる巻のままの美桜を奪った。
「やめろー」
木田はそのまま美桜を高く持ち上げた。布から頭だけ出ている。顔を必死に高森に向けて薄い唇が開く。なにかを言おうとしている。
「やめろー!」
高森は、本荘を肘で殴りつけ、木田に飛びかかろうとした。どこからそんな力が湧き出てきたのか自分でもわからなかった。
ところが木田は、あっさりと高森を払いのけてしまう。高森は自分で思っている以上に弱っていたのだ。
「わー」と木田は叫び、美桜を屋上から投げ捨てた。
高森は、すかさず手摺り壁に飛びついて上体を引き上げた。屋上にフェンスはなく、パラペットと呼ばれる周囲をぐるりと囲ったコンクリートの手摺り壁があるだけだった。それは簡単には乗り越えられない高さだ。高森はその上に腹ばいになった。
すでに水面は思ったより低くなっていた。いまは一階あたりまで下がっている。
三階のテラスに引っかかることなく、美桜は水面に落ちてしまっている。かなりの衝撃を受けたに違いない。
グルグル巻きにされた美桜は、ぐったりとしたまま浮いていた。このままでは手足も使えず、溺れ死ぬだけかもしれない。
高森は、壁の上に立ち上がった。
「ムダだ。助からない」と木田の叫び声は、ヘリのエンジン音にかき消される。
「エイッ!」
高森は、力を振り絞って飛び降りた。
水に落ちて、それから浮上することができない。あまりにも深く体は沈んでしまった。疲れているので、このまま死ぬかもしれない。手足も重い。
ふと気づくと頭は水面の上にあった。美桜はすぐ近くを流されている。
全身にまるで力が入らず、こんな状態で人を助けられるはずがない、バカな自分に呆れてしまう。
水面から立ちのぼる湯気のようなモヤが朝日に照らされて白く輝いていた。ヘリの風圧で細かい波が立って、キラキラ輝いている。
こんな美しいのに、自分は死ぬのだ。高森は警官になって、大したことはなにもできず、こんなところでこんな風に死ぬのだ。
美桜はすぐそこだ。水の流れは緩やかだ。
なんとか手を伸ばして、ふた掻きし彼女のところへ到達した。布はまだそれほど緩んではいない。そこに手を入れるようにした。そのまま引きずるようにして病院の建物へと戻ろうとした。このまま流されてしまうと危険だと感じたのだ。
水は引いてきているとはいえ、まだ足は地面につかない。
どこかから、建物の中へ戻れないか。以前にも一度、やっているように、窓を割ってでも入ろう。なんとかそこまでたどり着こう。
そのとき、屋上付近で奇妙な悲鳴が沸き起こった。
なに事かと思い、高森は見上げた。浮いていた美桜もじっと上を見ていた。
ズドーンと激しい爆音と振動。
ガソリンの臭い。黒い煙が朝日を覆い隠し、大きな影を投げかける。なにが起きたのか高森にはわからなかった。
悲鳴のようなものが一瞬、上がったものの、消えていった。
屋上から大きな煙のかたまりが上がっており、とんでもない事故が起きたことは間違いなかった。
まさか二機のヘリがもつれて屋上に墜落したとは高森も想像できなかった。悲鳴もなにも聞えなくなったので、屋上にいた人たちが大変なことになっているのだろうと想像するしかなかった。
そのとき、窓の開いているところが見つかった。流木がぶつかって破壊されたのだろう。二階の窓だ。水面からは少し高いところにある。窓からぶら下がっている流木を伝えば、登れそうだった。
高森は急いで、美桜をぐるぐる巻にしている紐をはずしていった。少し緩んだところで、美桜自身が、抜け出すようにして布を蹴り飛ばして水の中に出てきた。いま、生まれて来た子のようだった。
素手で流木をしっかりと握る。
高森はその生命力に感動すらおぼえ、彼女を背後から助ける。
美桜は裸だった。細い体つき。子どもから大人へと変わりつつある瞬間の姿は、朝日に照らされて生まれたばかりのビーナスのように輝いていた。
高森は彼女の踏み台となって、二階の窓まで押し上げてやる。
美桜が壊れた窓から室内に入ったので、続いて高森も上がろうとしたとき、窓に突き刺さっていたはずの流木は、ふいに落下してしまった。
「うわっ」
水を含んだ重たい流木は落ちるときにぐるっと回った。その枝にからまれて、高森はそのまま沈み込んでしまう。流木はここに流れてくるまでの間に枝が折れ、鋭い切っ先ばかりになっていた。
その枝がジャージと革帯に深く絡まってしまい、自由が効かない。
なんとか顔だけでも水面に出したい。流木は重くのしかかる。あがいているうちにどんどん病院から離れていく。
美桜がなにか叫んでいる声が聞えてきた。
それが、しだいにはっきりと高森に届く。
「さようなら、さようなら!」
美桜はそう叫んでいたのだ。
なんとか一度は水面に顔を出せたのだが、強い力で流木は回転し、また引きずり込まれてしまった。
高森はそのまま意識が飛んでいき、ついに肺にいっぱい水が入り込み、もがく力も失った。
流木は、そのまま高森の体と一緒に下流へとゆっくり流れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます