第58話 返事して!

「助けて! お願い!」

 ヘリは頼りないほどの小型で、青いラインが入っていた。日の出が近いのか、ときどき機体がキラキラと反射する。天気は急速に回復している。清美はさらに元気になってきた。

「おーい!」と大声が出た。「こっち、こっち!」

 そして希愛を「ヘリが来るよ、ヘリが」と励ます。

 病院の上でホバリングしているやや大型のヘリは、赤い機体に白いラインが入っていた。その横からロープが垂れ下がり、人が屋上に下りようとしている。

「病院の人たち、助かりそう」

 山に向かっていたヘリはいまや清美たちの真上付近。バラバラとエンジン音が聞えてくるが、それでも、すごく遠い気がしてならない。とても声が届くはずはなく、向こうからこっちが見えているのかわからない。

 気付いて欲しい。なにか合図を送って欲しい。

 トンネルのあたりを確認しているようだ。

「そんなところじゃなくて、こっちだって!」

 そのとき。

 ヘリの機体が一瞬でワープしたように、山から離れた。

「なに、あれ」

 山からなにかが飛び出してヘリにぶつかったように、清美は見えた。山というよりもトンネルから飛び出したのではないだろうか。

 呪われたトンネルから空気のかたまりのようなものがヘリにぶつかって、吹っ飛ばしたように清美には見えたのだ。いまも上空には陽炎のような空気の揺らぎが漂っている。

「そんな……」

 ヘリはすぐ姿勢を戻したが、なにかおかしい。ぐらぐらと揺れながら遠ざかっていく。どこかダメージを受けているのかもしれない。

「だめー、こっちだから! 助けて!」

 ヘリは斜めになって、空中でつんのめるように機首を下に向けた。さらに左右にもだえるように揺れながら高度を螺旋を描くように下げていく。見たことのない飛行をしており、どう見てもヘリはおかしい。

「なにしてんの、なにがあったの!」

 あっという間に水面すれすれまで落下した。

 ヘリはいったん水面に突っ込みそうになったのだが、そこから跳ね上がるように急上昇した。必死で操縦をしているのだろう。そのまま上昇できるのだろうか。

「よかったー、こっちに来てー」

 ところが、上昇したところが、病院のすぐ近くに到達していた。

 病院上空のヘリが気付いて、逃げようとしたが、水面近くから急激に上昇してきた小型ヘリの回転翼に、空中にいた救助隊員を支えているロープと絡まった。

「うそっ」

 ロープは一瞬で切断され、振り回された隊員は遙か遠くの水面へ放物線を描いて落下していく。遠くに水しぶきが上がる。

 ロープに絡まったままの小型ヘリ。なにかが引きちぎれてバラバラになって飛び散っていった。もはやヘリは飛行していない。絡まったロープによって、大型ヘリからぶら下がっている。

「やめてー!」

 大型ヘリはバランスを崩し、そのまま下の小型ヘリに接近した。そのまま上昇することなく、二機はもつれるように、病院の屋上へ突っ込んでいく。

 一瞬のことだった。

 清美が「あっ」と声を上げる。病院の屋上で二機が激突し、この世の終わりのような激しい音と炎を噴き上げた。

「なに、これ」

 希愛も上体を起こしてその様子を見ていた。

「こんなことって……」

 朝日が水面を照らし、雨は止んでいた。あまりにも美しい日の出。澄み切った空気。見渡す限りの水面がきらめいている。

 病院の屋上では真っ黒な煙が上がっていた。ポンと虚しい爆発音が響く。

 もしあの屋上にいたら、助からないのではないか。希愛と清美はどんよりとした気持ちになった。


 その少し前のこと。病院では……。

 階段の途中で眠ってしまった高森。布団を剥ぎ取られていくような錯覚に目が覚めると、いつしか足元まで迫っていた水は引いており、三階の床が見えていた。見えるのだ。

「朝だ」

 ほのかな明かりが窓から入って、濡れて光っている三階の廊下を照らしていた。

 美桜はどこへ行ったのか。

 突然、高森は思い出し、同時に「うー」とうなり声に気付いた。

 見上げると屋上へのドアの前に、藤岡夫妻と愛犬がうずくまっていた。

「どうしてここに」

 高森の声は擦れ、囁くだけだ。

 薄目を開けた藤岡が「追い出されました。犬を捨てろと言われて」。

「捨てる? なぜ?」

「人を噛むかもしれないからって。そんな子じゃないんです。噛んだりするわけないんです」

「ここにいてください」

 高森は、ゆっくりと立ち上がった。喉はまだ調子が悪いままだ。

「死んでいるのかと思った」と藤岡。「生きていてよかった」

 屋上へゆっくりと向かった。

 口論しているような男女の声がしていた。

 屋上へ出る鉄の扉は閉じているので、そっと開いてみた。

「殺すしかないのよ」と誰かが言っている。年齢のいった女性の声。本荘の祖母だろうか。

「これまで、そうやってきたんだから、いまさらやめるわけにはいかないでしょ」

「ムリですよ。みんな人殺しになってしまう」

「みんなじゃない。誰かがやる。これまでもそうやってきた。この前は、ここの院長たちがやってくれた。だから、このあたりの人はみんなこの病院を大事にしてきた」

「そんな……。だって、中学生ですよ」

 木田の妻だろうか。

 ドアを開けてしまいたい衝動。でも、もう少し待つべきだ。高森は隙間から漏れてくる声だけを聞いている。

「この子が生きている限り、大変なことが起こり続けるんだよ」と老婆の声は落ち着いている。「誰かがやらなけりゃならないんだ。私がやってもいい。どうせ、もうそれほど長くは生きられない……」

 そこでふっと声が途切れた。

「おばあちゃん! どうしたの、ねえ、おばあちゃん!」

 思わず高森はドアを開けて、屋上を見た。

 濡れた屋上に倒れ込み、空に向かって両手を伸ばしている老婆。それを抱えて「しっかり」と声をかけている本荘の姿がちらっと見えた。それを囲むほかの人たち。遮られてよく見えなくなってしまう。

「どうしたの、ねえ、おばあちゃん! 返事して!」

 もう待てないと高森は、飛び出した。

「どうしたんだ!」

「あっ」

 高森が生きていたことを知り、木田も本荘もその妻たちもびっくりして声も出ない。

 ただお互いに、薄明るい空気の中で認識すると、ひどくやつれて汚れていて、みすぼらしく、同時にあれほど強く発していた狂気のようなエネルギーは影を潜め、等身大の、ある意味、弱い人間が剥き出しになっていた。

「だめだ」と本荘が叫んだ。「息をしていない」

 高森は、老婆に駆け寄った。入院していた病人たちと同じように目を見開き、手を突き出し、恐怖に顔を歪めたまま、呼吸を止めていた。

 急いで老婆を横たえて、救急処置をしようとした高森だったが、「やめろ」と住人たちによって止められしまう。「触るな!」

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