第57話 助かるよ!

「死んじゃおうかな」

 高森が、そんなことを思っていた頃、蛇角山の裾野では……。

「ちゃんと聞いて。この人、人殺しなのよ!」と希愛が叫んでいる。

 希愛が、川へ入ろうとしていた清美を引きずり戻し、倒れている川田のところへ連れていったのだ。

「ひとごろし?」

 清美は亡くなったメンバーたちの幻を見てから、自分が正常ではないことに気付いていた。どこが現実でどこが幻なのか、わからなくなっている。

 だから藪の中に倒れている川田も希愛も、本物かどうかわからない。そもそも自分も死んでいるのか生きているのかわからない。闇の中で、なんとなくそこに存在しているだけだ。

「この人、あの女の子の親とか家族を全部、殺してきたのよ。そしてあの子を誘拐してトンネルで殺そうとしていたの」

「な、なんなの。なんの話をしているの」

 自分たちのマネージャーもとうとうおかしくなったのだ、と清美は笑い出したくなる。笑う気力が湧いてこないだけだ。

「ちゃんと聞いて。この人は十二年前にあの子のお母さんもトンネルで殺しているの」

「わかんない」

「呪われたトンネルに十二年ごとに生贄を捧げるんだって。そうしないと大変なことになるから。今年はそれに失敗したから、こんなことになったんだって。これ、ぜんぶ祟りなんだよ」

 希愛は、なにかに取り憑かれたように熱心に清美に伝えるのだった。

「トンネルを塞いでいたのは、誰かが中に入らないようにするだけじゃなく、中から外に出られないようにするためだったのよ」

「え? なにが出てくるの? いったい、トンネルになにがいるの?」

 希愛は、「それをいま聞いていたところ」。

 川田は荒い息をしながら「何百年も積み重なってきた人柱の祟りだ」と言う。希愛の言うわけのわからない話の出所は瀕死の川田だったのだ、とようやく清美も理解する。

「わかんない、わかるはずない」と清美。

 はじめて恋に落ちた相手が、いま死につつあることに突然、気付いた。

「だめ! 死んじゃだめ!」

 清美の力はもう大して残っていなかったので、這いずって手探りで大きな男の胸に頭をのせた。ほとんど鼓動が聞えない。だけど、彼の体は温かい。まだ温かい。その手を必死で握る。

「死なないで。お願い」

 返事はない。

「うそー」

 ドンドンと胸を叩き続ける。分厚く頑丈そうな体。いつか彼に抱かれる日が来ることを一瞬だが夢に見て、頼もしいこの男にすがって残りの人生を生きていきたいとさえ思ったのに。

「死なないで!」

 叫んだところで清美は意識を失ってしまった。

「清美! 清美!」

 声がしていた。いつからかわからない。下半身から温かいものがのぼってくるような気がする。毛布でも掛けてくれたのだろうか。眠い。もっと寝ていたい……。

「あっ!」

 ぼんやりと白い光。雨は小粒でほとんど見えないぐらい。空は灰色の雲が、勢いよく流れている。

「希愛さん」

 川田の胸に頭をのせていた清美をかばうように、希愛が下半身を覆っていたのだ。

「清美!」

 希愛が声をかけてくれた。

「ああ、よかった。気がついたね!」

「ここは?」

「覚えていないの? 山から下りた、どこか」

「あっ」

 すっかり忘れていたかのように清美は驚き、ゆっくりと立ち上がった。

 川田は眠っているようだ。静かに呼吸をしている。たくましい肉体は、ゆっくりと動いている。

「すごい気力よ。清美が温めたからかもね」

 恋をした相手が、どうやらまだ息をしている。持ち直したのだろうか。

 いろいろな記憶が一度に甦り、清美はしばらく呆然としていた。

「水が」

 すぐ近くを流れていたはずの洪水が、いまはずっと遠くまで引いていた。倒された藪のおかげで見通しがとてもいい。もう少し下ったら、コンクリートで舗装された道があることに驚く。もし洪水がなければ、病院へ、そして町へ続く道があったのだ。こんな異常な経験をしたのに、いま目の前にあるのはあまりにも日常的な世界だ。

 その先はまだ水に浸かっているものの、一面田んぼのようで浅そうだ。遠くに蛇角病院も見えている。わずかに高い場所にあるので、全貌が見えていた。

 無惨にもその一階や二階部分にはたくさんの流木や草がへばりついている。一段低い駐車場あたりはまだ水没したままだ。キラキラと朝日を受けて細かい波が光っている。

 清美は静かになってしまった希愛に「大丈夫ですか」と声をかけた。

「うん、なんとか」

 弱々しい返事だ。

 バラバラと音が響いてきた。

「来た」

「なに?」

「ヘリだ。ヘリが飛んでる!」

 町の方向には何機ものヘリが上空を舞っていた。あまりにも遠く、黒い鳥のようにも見える。

 そのうち、小さな点が、こちらに向かってきた。

「来るよ、こっちに来るよ!」

 もう一機も、別の角度からこちらへ向かってきた。

「助かる。助かるよ!」

「うん。よかった」と希愛。「なんとか生き延びたね」

 病院の屋上で布ようなものがひらひらと動いていた。

「病院、人がいる!」

 助けを呼んでいるのだ。

 そして別角度からこちらに接近してきた小型ヘリは、山に沿って被害状況を確認するように飛んでいる。

「おーい!」

 清美は手を振った。ライブ会場で観客たちに自分の声が届いているか確かめるときのように。とんでもなく重たく、怠く、手を振るのがこんなに大変だとは思いもよらなかった。それでも振り続けた。

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