第56話 死にたい

 彼女に「殺したんですね?」と言われ、高森は心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。

 院長に掴みかけられて、水中に引きずり込まれそうになって思わず殺した……。

 院長夫人が川田を刺したとき、止めるどころか、殺し合い見守り、川田がまだ息をしているとわかると、トドメを刺した。

 野上に羽交い締めにされ、赤堀ジュニアに拳銃を奪われたとき、野上を撃つように仕向けた。

 そして赤堀ジュニアの頭を吹っ飛ばすように銃口を上に向けて、思い切り赤堀ジュニアの指を握って引き金を……。

 偶然ではなかった。高森は、いまのいままで、どれも不幸な事故だと思い込んでいたのだが、明らかに意図的に仕向けた。それは、高森自身が殺したのだ。

 そのことを思い出さないようにしてきただけのことだ。忘れてしまいたい。すべてをこの大災害の中に埋め込んで流してしまいたい。

 それをなぜ、意識不明で倒れていた娘が知っているのか。

 強い殺意が高森をカーッと熱くさせた。せっかく忘れてしまおう、流してしまおうと思っていたことを、この娘は記憶し誰にでも言いふらすだろう。この子をこのまま生かしておいていいものだろうか。いますぐ殺すべきではないか。

 いまなら、誰にも知られずに殺すことができる。これまでと同じように。すべて大災害のせいにすればいい。

「だめだ」

 必死に衝動に抗った高森だったが、右手はホルスターに掛かったまま動かない。

 殺せ、殺せ、殺せ……。

 いつの間にかホルスターから銃を引き出して、握りしめていた。まだ握っているだけだ。これは警官の通常装備だ。握るぐらいは普通のことではないか。その銃口を眠っている美桜の頭に向けた。

 誰も見ていない。そもそも美桜のことを、住人たちは忘れている。ここに残したまま屋上に避難してしまったのだ。まさか、院長室がこのように浸水を食い止めているなどとは思わなかったのだろう。そうか、そのため、ドアがそもそも開かなかったのかもしれない。みな、避難を急いでいた。開かないドアのことまで気にかけている余裕はなかった。

 だったら、いまがチャンスではないか? 誰が気にするというのだ。殺して、彼女を窓の外に投げ捨てるだけのことだ。あとは大災害がすべてを呑み込んでくれる。

 確実に殺せ。頭を吹っ飛ばせ。毒蛇を殺すように。その毒が二度と使われないように。

 バサッ、バサッ。

 妙な音に気付いた。

 バサッ、バサッ。

 ドアの向こうでなにかがぶつかっている。シーツとか毛布のようななにか大きなものが、風に吹かれて壁に当たっているような音。

 ドアの下の隙間から、なにか入り込んできているような影が見えた。水がじわっと染みてきている。

 高森はライトをそこに向けた。

 ぐっしょりと濡れた髪の毛が、ドアと床の隙間にぎっしりと詰まっていた。海藻のように揺れながら、意思があるかのように、この部屋へ入ってこようとしていた。

 水はしだいに流れとなって部屋に入ってきた。表面張力が強く、ねっとりとした液体だ。外を流れている水とは違う。

「なんだ、これ」

 気持ち悪さに後ずさる。

 ドアの外、廊下になにかが詰まっていて、そのためにこの部屋だけ水が入ってきていないのかもしれない……。

 そんなことを高森が考えていた時。

 ドーン!

 再び激しい音がし、ドアが揺れた。

「うわっ」

 足元に絡みついてきた水に足を取られて仰向けにひっくり返った。慌てて立ち上がろうともがく。すべって立てず。ドアの方を向いてうつ伏せになるのが精一杯だ。

 するとドアと床の間から覗き込む目。ギョロッとこちらを見ている。

「うおっ」

 恐怖に体が硬直した。

 さらに何本もの指が隙間から入ってくる。細くふやけて真っ白な死人の指だ。

「やめろー」

 ドーンと再びなにかがドアにぶつかると、ついに内側に開いてしまった。

 いっきに水の壁が押し寄せて、一瞬で高森は巻き込まれた。

「うあ!」

 床に倒れたまま、窓の下まで流されていった。

「ちくしょう」

 なにかがまとわりつき、それを払いながら立ち上がろうとするのだが、それはみっちりとした重たいものだ。

 ライトはまだついている。それを当てると……。

「うわあっ!」

 頭の吹っ飛んだ野上だ。その横には赤堀ジュニア、それだけではない。川田、院長夫人、さらに院長の遺体までも、流れ込んで来た。

「よせっ、なにするんだ」

 まるで生きているかのように死体が彼にまとわりついてくる。高森を沈めて殺そうとしているのだ。流れ込んできた水が波となって体が浮き上がり、窓のヘリまで持ち上げられる。その波はしだいに高くなり、高森は逃れることもできない。胴上げでもされているかのように、ふわっと高く上がる。

「やめろ、やめろ」

 警棒で遺体を叩きながら、なんとか立ち上がったものの、ベッドは完全に水没し、そこに美桜の姿はない。

「くそっ、どこに行った」

 流れ込んできた水の勢いは凄まじく、窓枠に手をかけて立ち上がった高森の肋骨の下まできていた。部屋にあった机や毛布、そして遺体が浮かんでいる。

 それをかきわけながら、廊下へ出た。なかなか進まない。壁に手をあてて、少しずつでも闇の中を進んでいく。窓から外に出されたら、おそらく命はない。濁流に呑まれて、大量の木材にぶつかりながら死んでいくだろう。

 屋上へ行くしか生き残る道はなかった。そこには住人たちがいる。彼らは高森が武器を取り戻して病院内にいることを知らないだろう。美桜が知らせない限り。

 もしも美桜が彼らに知らせていれば、階段のところで待ち構えているかもしれなかった。

 拳銃があっても弾は二発。数人で囲まれたら勝ち目はない。

 かといって、このまま三階に留まれば、もし水がさらに増えたときに、溺れてしまうだろう。この調子で水位が上昇すれば、もうすぐ足は床につかなくなる。

 屋上へ向かう階段の途中まで上がって、高森は考えた。このまま夜明けまで待てるだろうか。それとも水がさらに上がってくるのだろうか。そのときは屋上に出て行くしかない。だったら、いますぐ、闇に乗じて行くべきか。それとも明るくなるのを待つべきか。明るくなる頃には水も引いているかもしれない。

 疲れとビールの酔いが、睡魔となって襲ってきた。

 あまりにも長い一日だった。町内をくまなくパトロールし、病院で話を聴き、トンネルまで警告に行き、崖崩れから生き残った美桜を救出し、トンネルに徒歩で戻り、彼女を背負って山を下り、病院に届け、軽トラで希愛を探しに戻ろうとして失敗し、水に流されながら病院に帰りつき……。

 そして殺しまくった。

 激しい睡魔は、おそらくこのまま寝てしまえば、二度と目が覚めないかもしれないとわかってはいても、抗うことができないほど強烈だ。

「死にたい……」

 自分でもそんな言葉が口から漏れて驚く。

 拳銃で自分を撃てば簡単だ。簡単に終わらせることができるだろう。警官に支給される拳銃は、犯人を殺すより多く警官自身を殺している、と半ば冗談のように語られることもあった。若い警官は突然、拳銃自殺をする。勤務の厳しさもある。人間関係の難しさもある。しかし、一番の理由は、簡単に死ねる手段を勤務中はしっかり身につけていることだ。

 警官の拳銃自殺は珍しいことではない、と高森は思う。

 楽になれるに違いない。本部に報告することもなく、言い訳を考える必要もなく、自責の念にかられながら長い人生を送る必要もない。

 一瞬ですべては終わる。

 眠くなる中で、拳銃に手をかけながら、ふわふわと気持ちがよくなっていった。温かいものが下半身から這い上がってくるような感触。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る