第55話 変な夢
闇の中でも、それが人のように見えた。
誰だ、住人か。
すると、その影は窓のロックをゆっくりと外した。
行くしかないと高森は、中の人と一緒になって窓を開けた。
「誰だ」
「私……」
一瞬でそれが、崩れた道路から助け出し、担いで山を下った女の子だと理解した。
「気付いたのか!」
「どうしたんですか、なにがあったんですか……」
「とにかく、そっちへ行く」
高森は元気が出てきて、重たい体を水から引き上げると、部屋の中へ転がり込んだ。そこは院長室だった。
「はあー」と深くため息をつく。自分ではそこまで疲労しているとは思っていなかったのだが、すでに限界を超えつつあった。温かなカーペットに濡れた体を横たえると、もう動けない、動きたくない。
いや、おかしい。なぜここは浸水していないのだ。
「大丈夫、ですか?」
「ううう」とうめきながら、体を起こす。
見上げると、患者着の美桜。ぼんやりとその姿がある。顔はよく見えない。なにしろ暗い。
「屋上に、逃げなかったのか?」
「屋上? どうして?」
三階まで水が来ていたではないか。さっきまで高森がいた窓の外は、腹まで水が来ていたのだ。外に落とされる直前には、三階にもすでに足首ぐらいまでは水が来ていたはず。なのに、この部屋はまるで外とは関係ないかのように乾いている。
「なにか、ないかな」
彼女を運び込んだときに見ただけの院長室。趣味の物や工具や本があってゴチャゴチャしていた印象しかない。ただ、美桜を寝かせるためのソファーベッドがあり、そのときにビジネスホテルのような印象を得ていた。
あの院長は、ここで趣味の時間を過ごしていたに違いなく、そのために快適さを求めていたはずだ。
ほどなく小さな冷蔵庫と酒のある棚を手探りでみつけた。冷蔵庫はまだほんのり冷えており、そこにある缶を手探りで取り出した。プシュッと開けて口に入れると、ビールだった。
「ふー」
かなり軽いタイプで、苦みもかえっていまは心地良い。
こんなときに口に入れるべきではないかもしれないが、体が求めていた。いっきに三百五十ミリの缶を飲み干していた。
空きっ腹にアルコール。気分はかなりよくなったものの、ふわっとなって少し頼りなくなってしまう。眠気まで催す。
それでもさらに棚を手探りで漁っているうちに、ふいに小さな灯りがついた。
LEDだ。机の上で手元を照らすための、充電式の小型ライトだ。指先で軽く触れるだけで白く光っていた。
それを美桜に向けると、彼女の顔が闇の中に浮かび上がる。青白い顔。微笑みながらも戸惑いの目。
独特の美しさがそこにはあり、高森は古代に作られた塑像を連想した。この世のものではないかもしれない。
「私も欲しい」
冷蔵庫の中を照らすとオレンジジュースがあった。それを渡す。
高森は次は慎重にノンアルコールのビールを見つけて、それを飲み干した。
「はー」と二人で息を吐いて、どちらともなく「ふふふ」と笑った。
一瞬、なにもかも忘れてしまう。命があること。いまはとにかく生きていることを実感して、それが大きな喜びに感じる。
高森は心が軽くなり、疲れがすっと抜けていった。
「なにをしている人?」
「お、おれ?」
「はい」
「警察官」
「そっか。警察官。正義の味方ね」
否定も肯定もできない高森だった。自分がしたこと、住人たちがしたこと。あれのどこに正義があるというのだろう。こんな災厄の前には、正義など出る幕はないのではないか。
「えっと。君、覚えている? なにか思い出せる?」
「なにも覚えてないんです。私、ずっと暗いところにいたみたい。トンネルの中みたいな……。出口がなくて。風がゴーって吹いている」
「その前。君、崖崩れに遭ったんだよ」
「わからないんです。今日はお客さんが来るからって、部活を終わってから急いで家に帰ったんだけど……」
「家に帰った?」
「だけど……」
突然、なにかを思い出したのか、ベッドに腰掛けてうつむいてしまった。
「ムリしなくていいからね」と高森。「なにがあったか、あとでゆっくり思い出せばいい。それよりもいまは……」
「変な夢ばかり見ていたんです、ずっと」
「うん」
「カメラを持った男の人たちが来たり、アイドルみたいな女の子たちが来たり、背の高い怖いおじさんが来たり……」
「へえ。妙な夢だね」
高森は話の内容よりも、苦しげに語り続ける彼女に気遣って、なんとか黙らせたかった。いまはおしゃべりをしている時ではないのだ。
「崖からバスが落ちたり、私が見に行くと、みんな叫んで逃げ回ったり。そうだ、あいつがまだ生きていて……」
「ムリして話さなくていいよ」
「あいつ……生きている……」
「なにがあったのか、どうしてあんなところで崖崩れに遭ったのか、いまはそのことは……」となだめるが、美桜は再び立ち上がった。
「殺したんですね?」
「えっ?」
「いいんです。どうせ、みんな死ぬんですから。あいつだってもう役に立たない」
美桜はそう言うとベッドに倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か」
再び意識が戻らないので、高森はしょうがなく毛布をかけてあげた。相手は子どもなのだ。わけのわからないことを言ったとしても、気にする必要はない。
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