第54話 白い影
木田も、祖父の兄が末期の癌で入院していたが、こちらも苦しげな顔をして亡くなっている姿に愕然としていた。確かに余命いくばくもなかったとはいえ、そんなに簡単に亡くなる状況ではなく、少なくとも最期は穏やかにと希望し病院側も約束していたはずだった。それなのに。
「医者も看護師もいないから……」と誰かがポツンと言う。「そんなこと、あるか! ここに運ぶときはみんな元気だったじゃないか」
みな病人だったから、元気とは言えない。とはいえ、すぐ命を落とす状況ではなかった。移送していたときも四人とも意識はしっかりしており、会話もできていたのだ。
「誰がやったんだ!」
みんなが騒ぎ出す。
さっきまでみんな同じ部屋にいた。高森の件にかかりきりだった。
少なくとも自分の仕業ではないことは明らかだと、高森自身は考えていたが、木田は「おまえがやったのか!」と懐中電灯を向けてきた。
「どうして……」
「赤堀も野上さんも、みんな、おまえが殺したんじゃないか」
「院長も川田さんも」
とみんなが高森を犯人にするのが合理的だと言わんばかり。理屈ではないのだ。この中でよそ者は、高森だけだから。
「そんなわけないでしょう。なんのために……」
「信用できねえな」
このような状況での人の気持ちは、通常とはまるで違う。
「とにかく、あんたには出て行ってもらおう」と木田の祖父が突然、言い出す。木田も「そうだ」と賛同した。
「出て行け」
住民たちが口々に言う。
「出て行くもなにも……」
病院はいまほぼ水没状態なのだ。外に出るということは水の中へ落ちること。それはここにいるよりは死に直結している。
「行けよ、この野郎」
「やめろ!」
木田たちが掴みかかり、誰かが窓を開けた。
先ほどとは違い、風が出てきて、細かい雨粒が吹き込んでくる。カーテンが帆のように大きく膨らみ、あっという間に濡れていく。床にもさらに水が溜まる。
「やめろ! なにをするんだ!」
高森は何発か拳をふるって、確かな手応えを感じていたものの、大勢の腕で持ち上げられて窓へ運ばれてしまう。
なんとか窓枠かカーテンを掴んで抵抗しようとするのだが、カーテンは虚しくレールから簡単に外れてしまい、高森は濡れた布にまとわりつかれてしまう。かえって動きの自由を奪われてしまった。
その一瞬。外に放り出されてしまった。
「あっ!」
うつ伏せで落下していく。
すぐ近くに水面があり、バシャンと落ちたものの、手と膝を激しく固いものにぶつけた。
病院の三階は二階より一回り小さく、その分、二階の屋根部分をテラスのように使っていた。
そのことに気づき、なんとか水没を免れたのだが、まとわりつくカーテンが荒々しい水流に持っていかれる。
「ちくしょう」
誰にも届かない叫びを上げて、カーテンを自分から外した。
そこに上から懐中電灯が当てられた。
「どうだ、死んだか?」
「ああ、たぶんな」
勢いよく流れていくカーテンの塊は、やがて水没していく。それを見た彼らは納得したようだった。高森は沈んだ、と。
高森は這うようにしてテラスを移動していた。
背後でしばらく懐中電灯の明かりが動いていたが、やがて窓がしっかり閉められる音がした。
立ち上がってみると、腰のわずかに下あたりに水面があり、なんとかテラスに立てることがわかった。
高森は、そのまま移動して、みんなが集まっていた休憩室に近づく。ほどなく、足になにかがぶつかった。
ずっしりと重い袋を持ち上げて、きつく縛られた巾着をなんとか開き、中から自分の革帯を取り出した。
「ははは」と虚しい笑い。あの女、投げたといっても、窓から落としただけなのだ。重すぎたに違いない。
革帯をしっかりと腰につける。ホルスターから拳銃を取り出し、中に入った水を抜いた。リボルバーを倒して弾を手に出す。薬莢だけとなった三発を捨てて、水をさらに切り、二発を装填し直した。
「ははは」
わざとらしい笑い声になっている。ホルスターに戻し、今度は警棒を手にした。
一振りで警棒を伸ばす。それを握りしめて、訓練のように前へ突き出してみる。心の中で「エイッ!」と気持ちを込めた。腹がグッと鳴って、そういえば食事も水分もほとんど補給していないことに気付く。水はあたりにいっぱいあるが、それを口にするのは危険すぎた。
なんとかしなければ、と心は焦る。次になにをすればいいのか決めかねて、とりあえず足元のテラスがある限り、周囲を歩いてみることにした。
灯りはない。窓の向こうには懐中電灯が揺れ動いているものの、高森の役には立たない。それでも漆黒の闇ではなく、薄ぼんやりと建物の輪郭は見えている。
テラスは東側と南側、つまり病院の正面側と左側面にL字に伸びていることがわかった。雨樋があって、それを使えば屋上へ上ることもできそうだ。
腰まで増えてきた水だが、流れはあまり急ではなかった。ただ、大きな樹木や木片などが流れてきて危険きわまりない。
暗闇の中から突然、樹木の枝が体にぶつかってきて、それにからまって、もう少しで流れの中へと引きずり込まれる。ジャージに引っかかった枝を折り、なんとか逃れたが、樹木はひっきりなしにぶつかってくる。
水に浸かっていると、それだけで体温が奪われ体力も削がれてしまう。タイミングを見て、室内へ戻るべきだ。窓が開いてなければ、警棒でガラスを叩き壊すことになるだろう。
住人たちに気付かれたくはなかった。高森としては自分が生きていることを、彼らに知らせたくなかった。いまは武器を手にしているとはいえ、もう一度、同じことを繰り返す気にはなれない。次に彼が住人たちと対峙するときは、圧倒的に彼が優位でなければならない。
南面の端、建物の平面図としては一番西まで行ってみたが、そこからまた戻ることにした。
休憩室は真っ暗で、無人となったようだ。全員、屋上へ避難したのだろう。窓は閉じている。
そこから病室替わりに使った個室を辿って東側へ移動していく。
こちらも人の気配はなく暗いままだ。おそらく、患者が全員死んでしまったことにショックを受けた住人たちも、いまは自分たちが生き残るために必死で屋上へ待避したのではないか。遺体はどうしたのだろう。運んだだろうか。それとも諦めたのだろうか。
布団、毛布、シーツ、マットレス、折り畳みのテーブルなど使えそうなものを屋上へ運び揚げて、身を寄せ合って救助を待っているのではないだろうか。テント、防水シートのようなものはあっただろうか。あったとしても、十分ではないだろう。
それでも彼らは集団であり、飲料水や食べ物も多少は持っている。あと五時間ぐらいなら屋上でも持ちこたえられるだろう。
高森は窓に指先をかけたり、引っ張ったりしながら、開いた窓を探して進んだ。窓を破壊するのは最後の手段だ。
開かない、開かない、だめだ、動かない、びくともしない、次もだめだ……。
とにかく最後まで確認してから、それでも開いている窓がなければ警棒を使うつもりだった。この雨がある限り、屋上まで音は響かないだろう。響いたとしても、高森の仕業とは思わないだろう。洪水によって建物が破壊されていると思うはずだ。雨音に混じって、漂流物が建物に激突している音が聞えているのだから。
開かない、これもダメか。あといくつあるだろう……。
水はいつしか腹まで沈むほど深くなってきた。体力も限界。気持ちも限界。これ以上、水に浸かっていたら、足をすべらせて流されてしまうかもしれなかった。窓を割るだけの体力も失われてしまうかもしれない。
もうだめだ、割ろう。
東側、正面のあたりまで来て、高森は警棒を再び手にしっかりと握り直す。とても重たく感じる。濡れているからでもあるが、しっかり持てているのか自信はない。
窓のへりを指でひっかけて動かしてみたが、びくともしない。いよいよ割ろう。
警棒を振り上げて、窓枠のレール部分に左手をしっかり掛けて、体を反らせ、右腕を伸ばして振り下ろそうとした。
「はあっ!」
窓に白い影が貼り付いた。
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