第53話 行っちゃダメ!
「使えるものはあるかな」
「毛布とかビニールとか。できればテントとか」
「探そう」
不気味なほど風はなく、ただただ雨が降っていた。そして懐中電灯が届くかぎり、水面が続いていた。ほかの建物は見えない。まるで
このまま水位が上昇すれば屋上でもダメかもしれない、と高森は感じた。その思いは住人たちも抱いているようだった。
「むしろ、ボートが必要だろう」と誰かが呟いた。
山中で川の流れに沿って下っているつもりでいた清美だったが、道はほとんどなく、ぬかるんだ浅瀬を歩いているようなもので、藪の向こうは真っ暗ながらもすべて水の下に沈んでいるようにしか見えない。
うっかり間違えると、あっという間に膝まで水に浸かり、木々に掴まってなんとか這い出るのだが、これでは下がっているというよりはむしろ登っているのではないだろうか。
とても病院には辿り着けそうにない。
真っ暗で雨の中を歩いていると、清美は登っているのか下っているのかといった感覚も曖昧になってきて、滑って水に落ちないようにしながら前に向かって足を運ぶだけで精一杯だった。疲労だけが重くのしかかってくる。
「はーるー」と甲高い声が聞えたような気がした。
「春、スプリング、弾むよバーン!」と清美は口ずさむ。
「たたたた、ターン!」
「ぐぐっと、キャッチ!」
「アマテラス・アホテラス、アマテラス・アホテラス……」
ネコノミニコンがオープニングで歌う曲だ。コミカルなアップテンポの曲で、全員で踊りながら歌って、そこからの自己紹介へと進むパターンだった。何百回と練習し、どんな少ない客の前でも必ず演じた。出落ちのように、ライブではそこがピークということもあった。
まさかとは思うのだが、うっすらと向こうになにかが漂っている気がした。かなり遠いものの、台に乗っている三つの人影に見えなくもない。そこはすでに水没して川のようになっている。
「うそでしょ」
そのとき、パッとスポットライトがそこを照らし出した。
「ピンスポ……」
淀んだ流れ。一面、水。そしてまた水。そこに、ロケバスの屋根が浮かんでいるように見えた。
日奈子、美波、明日華が、いつもの巫女衣装で踊っている。その歌声が雨の向こうから聞えてくる……。
「ありえない」
まるでロケバスは船のように水の中をゆっくりと進んでいくではないか。
「そう、右、右、左。下がって下がって。あ、また明日華が間違えた。そうよ、上を見て左、左。タタタって走ってタッチ……」
いつしか清美もそこで一緒に踊っていた。
彼女たち、助かったんだ。バスも動いているんだ。すごいな、水の中でも動けるんだ。こっちに来てくれないかな──。
清美からは遠ざかっていく。
「みんなー、なにしてるのー」と清美は叫んだ。
三人が手を振って跳びはねている。なにか大声で叫んでいるようだが、なにを言っているのかわからない。
「行かなくちゃ」
呼ばれている。あそこへ行かないと──。
清美はリーダーなのだ。彼女たちだけでステージができるわけない。自分がいなくてはネコノミニコンははじまらない……。
「ダメ!」
突然、足首を掴まれて、清美はそのまま頭から水の中へ倒れ込んでしまった。思った以上に深く、溺れそうになって暴れた。
「なにすんのよー」
水面に出ると、そこにずんぐりした黒い影。その手はいまも清美の足首を握ったままだ。
「そっちへ行っちゃダメ!」
希愛だった。
「なにすんのよ。あっちにみんな、いるんだから」
引き戻されて、なんとか草にしがみつく。
「バカ! そっちは水だから。死んじゃうよ!」
「だって、みんな……」
もちろん、そんなものはないのだ。スポットライトもロケバスも彼女たちも。あるのは闇だけ。恐ろしい幻覚だった。
「清美、しっかりして。あんた、同じところをぐるぐる回っている」
「え?」
「私たちの右側に行ったのに、さっき左側から来た」
「え?」
必死に歩いて下流へ、そして病院のある方へと進んでいたつもりだった。清美は狭い範囲で堂々巡りをしていただけなのだ。
それだけではなく、亡霊を見て、いま危険な水の中へ入り込もうとしていた。
このまま死ぬのかな、と清美は思う。疲れもピークだ。なにも考えられない。
「私たち、ここから動けないね」
希愛はそう呟く。近くには、ぐったりしてまったく動かなくなった川田の体があった。濡れるに任せるしかない。少しでも雨をしのごうと藪の中にいたはずなのに、そのあたりが細かく崩れていき、いつしか藪の外に出ていた。雨をしのげる場所はどこにもない。
清美はこのときはじめて、本当の絶望を知ったのだった。
「逃げられない」
この山に捕らわれてしまったようなものだ。
清美と希愛は、いまこの山で生きている人間が自分たちだけなのだと感じた。そして、救助の手が差し伸べられることも期待できなくなっていた。
病院も重苦しい空気が流れていた。
というのも、とにかく病人を屋上へ移動させようとしたときのことだ。
運び出すために全員の力が必要だった。
そしてみんなが異変に気付いたのだ。
「なぜだ!」
四人の入院患者は全員、目を大きく開き、ある者は手で虚空を掴むように、ある者はなにかから逃れるように体を捻り、首でも絞められたかのように亡くなっていたのだ。
「うそだろ」
本荘は、祖父の変わり果てた姿に唖然としていた。軽トラの事故で足を骨折して入院していただけなのだ。あと数日、リハビリをすれば退院へという流れだった。死ぬ要素はまるでなかったのだ。
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