第49話 黒い物体
闇の中、懐中電灯の小さな光源に切り取られた部分だけを見ても、よくわからない。
そもそもなぜ、そこに水が流れているのか。
「道を間違えた」
川田はそう考えた。沢のある谷側は山を回り込んでいくことになり、むしろ病院からは遠くなる。水があるということはここは沢で、谷に入り込んでしまったと考える。だが、それほどの距離を歩いた気はしない。いずれにせよ、このまま進むのは危険だ。
「向こうへ行こう」
川下である左手に沿って歩けば、遠回りになるかもしれないが、谷の出口につながってやがて病院の方向へ進めるはずだ。水は低い方へ流れる。少しでも安全な場所を辿って川下を行けば、いずれ病院の近くに辿り着けるのではないか。
川田は蛇角山を下りながらも、どちらかといえばトンネルの向こう側にはじまっている谷の側へ出てしまったと思ったのだ。流れの右側、つまり上流へ行くと谷の奥へ進んでしまう。それは正反対の方向だろう。
まさか、すでに二人がほとんど山裾に到達しており、そこまで水が来ているなどとは思っていなかった。それもただの水ではなく、ダムが決壊し川が氾濫してのことなので、これほどの規模の洪水になっているとは想像できなかった。
水の流れに沿って進む道を探すと、いったん登ることになるが、二人はその道とも言えない道を必死に進んでいった。ほとんど這うように四つん這いで、泥だらけになってしまった。
「疲れた……」
清美は突然、足が止まり、その場にしゃがみ込んだ。
「どうした」
「もう、動けない」
極度の疲労は突然、襲ってくる。飲まず食わず。雨でずぶ濡れになり、体温も奪われている。限界である。
「寒い……」
川田は何度もやってきたように彼女を抱き締めたが、すでにその効力は失われていた。びしょ濡れの服同士で抱き合ってもガクガクと震えている彼女に活力を与えることはできそうにない。
「動けないのか」
「ムリ」
川田もケガの影響で全身にしびれのようなものがあり、少しでも止まったら二度と動けなくなりそうだった。清美を見捨てて行くしかない。
「じゃ、そこにいろ。できるだけ藪の中の暖かそうなところに入り込むんだ」
「うん」
這うようにして、細い笹の生えた斜面に頭から入っていった。
「ぎゃあ!」
「ぐわっ!」
「どうした!」
清美の悲鳴と、なにか別の奇妙な声が笹の奥から響き、川田はびっくりする。
「なにかいる!」
疲れ果てた清美がお尻から笹の中から戻って来る。
「動物か?」
「生き物」
「こっちに来い。近づかない方がいい」と川田は清美を抱き寄せ、逃げようとした。
「ちょ、ちょっと……」
藪の中から声がした。
川田も清美も凍り付いたように動けなくなった。それはうなり声のようでもあり、言葉のようでもある。幻聴かもしれない。これは霊的な現象だろうか。なにかそこに恐ろしいものがいて、自分たちをいまにも叩き潰そうとしている……。
雨が小降りになってきて、藪の中の声がくっきりしてきた。
「待って、待って」
言葉に聞えた。
「聞いちゃダメだ。逃げよう」
川田は清美を抱えて少しでも遠ざかろうとするのだが、清美はまったく足に力が入らない。疲れ果てた上に、恐怖でおかしくなってしまっていた。
川田も、アイドルの女子ぐらい小脇に抱えて軽々と走ることができる体格ではあったが、崖崩れに巻き込まれ、そこから逃げ出すだけでかなりの体力を消耗し、負傷した腕や足から大量の血液が流れてしまっていた。ふんばりがまったく効かなくなっていた。
「待って、置いていかないで」
ついにはっきりと声が聞えた。人の声だ。
「やめろ! 悪霊め。おれたちに構うな!」と川田は度鳴る。
「ちがう、ちがう、私。私だから」
藪ががさがさと動き、そこからずんぐりとした黒い物体がゆっくりと姿を現わした。
とても人間には見えない。丸い物体、いや四角いのか。頭はどこにあるのか。そもそもそれは体なのか。岩のようなものか。未知の生物か。
「清美」
「いやあっ!」
不気味な化け物に名前を呼ばれて、狂ったように泣き叫ぶ清美。とうとう死が迫ってきたのだ。生まれてはじめて、本物の恋をしてその男と一緒にいられたのも束の間、死ぬのだ。化け物に食われて……。
「私よ、清美、私」
「やめてえっ!」
怖すぎてなにも見えない。目を開けていられない。
「吉岡。私、吉岡」
カタコトの日本語のようなものを叫びながら、化け物は、姿を現わした。
「ひいっ!」
清美も、ついにそれを見てしまった。真っ暗な中に浮かぶ四角い体。
「えっ?」
「清美でしょ、その声。私よ、吉岡。吉岡希愛」
「うそっ」
「騙されるな。化け物は知り合いになりすます」と川田。
「ホントよ、私、膝が壊れちゃって、途中で警官の人と別れたんだけど、トンネルに戻らなくちゃいけないと思ってここまで上がって来たの。だけど、やっぱり動けなくなっちゃって」
「希愛さん? 希愛さんなの?」
「ダメだ。信じちゃいけない」
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