第47話 拳銃

 院長の遺体の上に二人が倒れ込み、もみ合い、悲鳴が上がる。川田の手から懐中電灯が飛んでいく。それは水没してしまった。しばらく水の中を青白く照らしていたが、やがて消えた。

「ぎゃー」

 長く甲高い叫び声が長く尾を引く。

「川田さん」

 高森君が近づくと「来ないで」と微かな声。

「このまま、ここに」

 院長の遺体の上に仰向けに倒れている院長夫人、そこにうつ伏せになっている川田。その背からは血があふれている。

「手当をすれば……」

「ムリよ、こんな状態じゃ……」

「でも……」

「いいの。どうせ私はいつか死ぬわけだし。ただ、心残りなのは、あの子。美桜という女の子」

「ええ。大丈夫。ちゃんと助けますから」

「違う」

「なにがですか。あの意識不明の子のことですよね?」

「あれは意識不明なんかじゃない」

「どういうことです」

「始末して。お願いだから」

「始末、とは?」

「トンネルに帰すんです。トンネルに」

 口から血がゴボッと噴き出した。

「意味がわからないですよ、川田さん」

 しかし、それきり、川田はなにも言わなくなった。しばらく息をしようと苦しんでいたものの、やがてそれも止まった。川田は静かに目をつぶった。

 あらゆるものからエネルギーを奪って行く死が、彼女に訪れようとしていた。

「川田さん!」

 揺さぶっても反応はない。

 呼吸、鼓動ともに停止している。

 なんとかしようとしたとき、野上がやってきて、高森を背後からそっと抱きしめた。

「これ以上、なにもできません」

 唯一の医師である院長を失い、二階まで浸水しているいま、深い傷を負い大量に出血した川田にできることはなにもない。

 高森は川田の絶命を確認し、彼女の体の下で冷たくなっている院長夫人の死も確認した。

 まるで、すべてが自分の手の中からこぼれ落ちて行ってしまうようだった。赤堀も、院長も、院長夫人も、川田も。

 その間にも、水は膝の下あたりまで上がってきていた。またしても浸水の速度が上がっている。

 こんな事態になって、本部にどう報告すればいいのか、と高森は考えつつ、急いで三階へ戻ろうと階段を上がった。

「どうなってるんだ」と赤堀ジュニアが待ち構えていた。

「二階まで水が上がってきています。このまま水が増えたら……」

 そのとき、赤堀ジュニアは階段を降りながらドンと高森にぶつかってきた。

「な、なんだ」

 高森はバランスを失い、足元がもつれて、背中から落ちてしまった。階段に肩や腕や背をぶつけてしまう。

「大変!」

 踊り場にいた野上が、階段に頭を下にして倒れている高森を抱えた。

 全身を強く打ち、とりわけ頭を打ったようで意識が朦朧としている。

 そこに、赤堀ジュニアが飛ぶようにして下りてきた。

 虚を突かれて激しく体を打ち付けてしまった高森は、鍛えているからか意識はすぐに回復してきた。立ち上がろうとするものの、力は入らない。野上ががっちりと両腕を後ろから押さえている。

「悪いな」

 赤堀ジュニアは帯革を外しにかかった。

「やめろ!」

 高森が蹴り飛ばそうとしても、そこは赤堀ジュニアが体重をかけてきてうまく動けない。

「早く!」と野上が赤堀ジュニアに声をかけた。

 おっとりとした印象だった看護師の野上だが、彼女も日頃から鍛えているのか、腕の力はかなりのもの。握力もすごく、高森は体勢が悪いこともあって振りほどけない。斜めの階段。頭が下。そこに野上がいて背後から腕をひとまとめにして抱え込むようにロックしている。その腕が簡単には抜けない。

 味方をしてくれていると思っていた野上の思いがけない裏切りにも動揺していた。なぜ赤堀ジュニアを助けるのだ。これは犯罪行為だ。

 高森は落下した影響なのか、態勢の悪さからか、いつものような力は出ない。焦るばかりだ。なんといっても、警官の装備を奪われるのは最悪の事態である。落とす、無くす、奪われる、どれ一つ取っても、場合によっては辞表あるいは懲戒免職となる事案だった。

 警官にはいろいろと絶対にやってはいけないことがあり、それを叩き込まれていまに至るわけで、いまやそうした決まり事そのものが高森自身を形作っている。

 許されないことを、いま、されようとしている。看護師に掴まれて反撃できませんでした、などと言い訳できるわけがない。相手は二人がかりとはいえ、シロウトなのだ。なんとかするのが警官としての責務だ。

「やめろ! そんなことをしてなんになる」

「おまえがこんなものを持っている方がおかしいんだ」

 バックルを外された。

 ゆっくりと革帯が自分から離れていく。

「これからは、おれの指示に従ってもらう」と赤堀ジュニア。

 拳銃や警棒のぶら下がっている大切なベルトを奪われてしまった。そもそも制服からジャージに着替えたときから少し緩かったこともあるのだが、こうあっさり奪われてしまうと、高森はさらに無力感に苛まれた。いくら未曽有の災害に遭っているからといって、あってはならない事がいま自分の身に起きていることを、仕方が無いと考えることはできない。自分にスキがあったのだ。相手に妙な気を起こさせてしまった。なんとかしなければ。この事態を収拾しなければ。それができるのは警官である自分だけだ……。

「ふふふ」

 赤堀ジュニアはうれしそうに自分の腰に革帯を締めて、いきなりホルスターから拳銃を引き抜いた。

 あまりにも子どもじみたその行動に、高森は焦る。そして野上を振り払おうと身をよじる。

「それに触るな。危ないぞ!」と高森が怒鳴っても、赤堀ジュニアは平然としていた。

「思ったより軽いな。小さいし」

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