第46話 奥様
吊り橋効果という説がございまして、吊り橋を渡るような恐怖体験を共有した人の間に、深いつながりが生まれる可能性を示しております。が、必ずしも恋愛に発展するとは限らないわけでございます。簡単に言えば、吊り橋などのドキドキする場面で出会った人のことを、心のときめきのドキドキと同じように解釈して好きになっていくこともあるよね、ということが実験で証明されたと伝え聞くのでございます。
これはまじめな実験でして、1970年代のことですので果たしていまに通用するかはわかりません。それに、この実験では同時に「見た目」に大きく左右されることも明らかとなったそうで、要するに相手が嫌いなタイプだったら吊り橋効果によって、さらに嫌いになるとか……。結局は一目惚れの一種でございます。
ともかく、清美は、大男の川田に一目惚れをし、こんな状況で命さえもどうなるかわからないのに、彼に手を握られながら二人のため、いや彼のために懐中電灯を手にして道なき道を下っていくことに、ただならぬ興奮を感じていたのでございます。
舞台なら、音楽とともに花道を去って行く二人、といったところでございましょうが、現実はそんな美しいものではございません。すべりやすい足元。突然倒れてくる樹木。勢いよく水が噴き出し、目の前を土のかたまりが飛んでいく……。
映画のインディー・ジョーンズなら、冒頭のスペクタクルのようなありさま。
蛇角山はこの二人を祝福するどころか、亡き者としようとしているかのよう。その地獄道を突き進むのでございます。
「負けるもんか!」
清美は、これまで感じたことのなかった生への執着に自分でも驚き、とにかく生き延びたい、この状況から脱出したい気持ちでいっぱいになっていた。それをもたらしたのはこの男だ。
生き延びるのだ。川田と二人で。
彼となら生きられる。きっといい結末になると確信していた。
一方、すっかり周りを水に囲まれてしまった蛇角病院では、地下に水が浸入したため発電機は壊れ、蓄電池に残された電力さえも、水没したためショートして途切れてしまった。
三階では、小型バッテリーで充電できるランタンや懐中電灯でかろうじて明るさを確保していた。
高森は、必死になって争っている人たちをなだめようとしていた。
「これが山の祟りだなんて、くだらないことを言うな!」と赤堀ジュニアが度鳴っている。
「いいや、おまえだって十二年ごとのトンネルの祟りは知っているはずだろ!」
言い返しているのは、木田直人。赤堀ジュニアとほぼ同世代の三十代。大叔父が入院しており、祖父、妻と避難してきていた。
「おれたちは見て見ぬふりをしてきた。きっと誰かが、十二年ごとにあのトンネルに入って……」
「やめろ、そんな気持ち悪い話。信じられるわけないだろ」
「こうなったのも、きっと今年がその十二年目で、誰かが失敗してトンネルに行けなかったからだ」
木田直人はそう言い張る。
「とにかく、落ち着いて」と高森が二人に距離を取らせた。
「なんでケンカになっているのかわかりませんが、いまは落ち着いてください。救助は間違いなくあるはずですから」
すると今度は直人も赤堀ジュニアも、同時に高森に向かってきた。
「ホントかよ! 連絡も取れていないんだろ!」
「おれの親父はどうしたんだ! おまえのせいで……」
かえって火に油を注いでしまった。
「やめて、やめて」と野上が高森を背後から腕を取って、引き離そうとする。
そのとき、階段から藤岡夫妻がやってきた。ず町からの移住者は、頭からずぶ濡れになっている。
「どうしたんです?」
「屋上に行ってきたんですが、大変です」
「屋上へ? 何をしに?」
「コンタが……」
見れば夫妻は小型の柴犬を連れていた。
「なるほど。外が見たいと?」と高森もとぼけたことを言うので、野上が思わず「ほかの人たちに気兼ねして」とつぶやく。
「犬連れでも避難して大丈夫なんですよ、向こうに個室があるので」と野上。
「はい、でもトイレとか」と藤岡夫妻。
「なるほど、で、外はどうなっているんです?」
「もうすぐそこまで水が来ているんです。すぐそこですよ!」
赤堀ジュニアたちが、階段を駆け上がっていく。高森もあとに続いた。
屋上は、洗濯物を干せるスペースと、ゴルフの練習ができるらしいネットがある。そこだけ人工芝が敷かれている。どこもかしこも雨水がたっぷり溜まっていた。
雨は小降りになっている。とはいえ、まだ容赦なく降り続けている。
高森だけが懐中電灯を持ってきたので、屋上を囲む胸ぐらいの高さの塀に飛びつくようにして下を照らしてみると、驚くほど近いところに水面がギラギラと反射してビックリしてしまう。それもなかなかの勢いで流れているのだ。この病院はまるで大きな川の中洲に建っているのではないかと錯覚するほどの光景だ。
「ウソだろ」
「二階を見て来よう!」と赤堀ジュニア。
「ぼくが行きます。みなさんは三階で荷物をまとめておいてください。三階までは水も来ないとは思いますけども、いざとなったらここに逃げるしかないですから」
高森はそう言うと、大急ぎでみんながいる階下へ戻っていった。ケンカどころではないのだ。
「ちくしょう、どこからそんなに水が来るんだ」と叫ぶ声。人々は苛立っている。
高森は、三階はパスして、二階へ。
階段を降りるとビシャッと水が跳ねた。確実に浸水している。沈みつつある客船の中にいるとしか思えない。
院長の遺体を置いた部屋へ確認しに行くと、そこに人影が揺れていた。
「あっ」
髪を振り乱し、細い体がねじれたようになっている女の人……。
「奥様!」
背後から川田が来ていた。彼女も懐中電灯を持っている。二階が水没する可能性があると知って、慌てて来たのだろう。
「部屋に戻っていてください」と川田が彼女の手を掴もうとした。それを振りほどいた院長夫人。
「あの人は、どうして、こんなところで寝ているですか!」と度鳴る。
「院長のことは任せてください。奥様はこっちへ」
「悔しい。あんたなんかに夫を任せてたまるものですか!」
「なにをおっしゃるんですか。さあ、上へ」
強引に連れ去ろうとした。
「あっ」
川田の体が突然弾かれたように離れ、壁にドンとぶつかった。
なにがあったのかと高森は驚いて、懐中電灯を向ける。
そこには包丁を両手で握った院長夫人が立っていた。
壁に手をついてかろうじて立っている川田。その背から血があふれていた。
「川田さん!」
「いいの! 放っておいて!」
そう言うと、力を振り絞って院長夫人に向き直り、「奥様」と声をかけると彼女にぶつかっていった。
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