第44話 トンネルに帰す

 ぼやっとした光の輪に斜めに振り続ける雨粒が糸のように反射している。その向こうにあきらかに大きな黒い影が存在していた。それがこちらへと近づいて来る。

 人でだろうか。まさか熊?

 どちらにせよ、清美は怖くて恐くて震えるのみ。固まったまま動けないのだ。

 ベチャッ、ベチャッと足音はだんだん大きくなって来た。

 なにかうなっている。やはり熊だろうか。この山にはどんな生き物がいるのか、清美はまったく知らない。ニュースで日本中のあちこちに出没する熊や猪や鹿のことは見聞きしていた。自然を守ろうという地方都市のイベントに出演したこともあれば、子どもたちに町中で害獣に出会ったときの心得を教えるイベントに出演したこともあった。山の中ならそういう大型の動物がいても不思議ではない。

 もっとも、動物というものは本能的に危険を早く察知し、これほどの雨になる前にどこかへ避難しているのではないだろうか。そういえば、雨ということもあって、このロケに来てから、鳥の影さえも見ていなかった気がした。

 ここにいるのは人間だけ。

 崩れた道路の方から、人間が懐中電灯も持たずに来ることなどあるだろうか。

 ベチャッという足音はさらに重くはっきりしてきた。ズサッと音が変わる。もう黒い影はすぐそこにある。

 懐中電灯はぼんやり光っていたかと思うと、消えてしまった。

 叩いても揺すっても、反応しなくなってしまった。

「たからやか」

 野太い声がした。思ったより近い。

「ひいっ!」

 清美は、やっと悲鳴だけは出て、少しだけ体を揺する。でも逃げられない。

 まさに腰が抜けた状態だ。

「たからやみおなのか」

 それが人間の声らしく、言葉らしいと気付くまでしばらくかかった。

「助けて! お願いです。助けて!」

 清美はとうとう叫び出す。誰かが助けてくれるのではないか。

「おまえは誰だ」

 黒い影はすでに間近だ。手を伸ばせば触れられそうだ。彼女は地面に倒れているからか、相手はとても大きく見えた。がっちりとしてずぶ濡れで、手足は奇妙な動きをしている。いや、不自然な動きしかできないのかもしれない。

 ケガをしている。だから動きがおかしいのだ、と清美は気付く。

 熊と出会うより人間の方がマシ。その人間もケガをしているなら、それほど畏れることはないだろう。ただ、そうなると、助けに来てくれたのではないかもしれない。たまたまほかにもこの山にいた人間がいたのだろうか。

「助けて!」ともう一度、声をかけてみた。

「ふん」と影は鼻を鳴らしたようだった。男だ。大男でケガをして、しかもいけすかない雰囲気を醸し出している。ライブや握手会などでも、この手合いは面倒を起こすことがあると、乏しい記憶と強い偏見から警戒せざるを得ない。

「たからいみおを知らないか」

「なにを言ってるの? 意味、わかんない。助けてよ」

「ムリだ。おれも、ちょっと、あれだ」

 右手はうまく動かない。右足もかなり引きずっていて、わき腹あたりが痛いのか苦しげに体を曲げている。

 ぼんやりとした影のかたまりではあっても、清美にはそう見て取れた。

 その時。

「うおー」と声がして、崖側から何かが飛び出してくると、その大きな男にぶつかった。

 地面にドサッと倒れてもみ合っている。

「うそっ!」

 てっきり死んだと思った細野屋が、相手に襲いかかったのだ。

 清美は、怖さしかありません。こういうシチュエーションは、彼女の記憶ではゾンビ映画でしかない。死体同士が戦っている……。

 もしかすると、トンネルの入り口に雑多に積み上がっているあの死体たちも、動き出すのか……。

「いやあー」

 清美の叫びのせいではないのか、影のかたまりは動かなくなった。

「だから、だから、トンネルの奥に……」

 微かに声がしている。

 影と影がぶつかって倒れて重なって雨の中で小山のようになっている。静かになったのは死んだからではなく、影と影がコソコソと話をしているからだ。

「宝家美桜とは何者なんだ」

「十二年ごとに、トンネルに返さないといけない」

「人だろう。中学生にしか見えなかった」

「人だ。人であると同時に、人ではない」

「生き霊というのか?」

「かもしれない。十二年前に母親を返した。子を残す前がよかったのだが、時期が合わなかった」

「あの子にはなにがあるんだ」

「すでに起きてるじゃないか」

「なにが!」

「この雨。崖崩れ……」

「うーむ」と瀕死のケガをしているはずの細野屋籐七朗がうなっている。「わからないものだな。何十年とこの仕事をしてきて、こんなところではじめて、本当にわからない、それこそ魑魅魍魎とでも表現するしかないものに出会うとは」

 ゲホゲホと咳込んでいる。

 清美も、話を聞こうと這うようにして近づいた。立ち上がれないままだ。

「このトンネルは人柱によって生まれた。この山そのものが巨大な墓であり、怨念のかたまりなのだ」

「どうすればいいのだ、供養は?」

「三百年にわたる深い怨念の積み重ねだ。このあたりにいる神主や僧侶ではとても太刀打ちできない。おれは、彼女をトンネルに帰そうとしたが、突然道が崩れて流されてしまった。それも彼女の力に違いない。とんでもない力だ」

「宝家美桜にそんな力があるというのか?」

「そうとしか思えない。彼女はいまどこにいる?」

「警官が担いで山をおりて麓の病院に向かったが、この雨だ。どうなっただろう……」

「蛇角病院か? そこにはおれの姉がいる。姉と院長は、十二年前にその子の出産に立ち会った。そして母親をトンネルに帰した」

「だったら、なんとかするだろう」

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