第42話 心肺停止
音はエレベーターのドアから響いてくる。
懐中電灯で、ドアに隙間ができていることがわかる。指を入れられそうなぐらいの黒い線が縦に走っている。もっとも下の方は水面下だ。
高森君はそこに飛びついて、手足に力を入れてエレベータードアを開いてみる。
「うおおおおお」
奥からいきなり手が伸びてきて、高森は掴みかかられ、水の中へ倒されてしまった。思いがけない力だ。
「おおおおおお」
雄叫びを上げて、襲ってくる。
上から重たいものが被さってきたので、高森はそのまま沈んでしまい、起き上がれない。全身が水の中に入ってしまい、なにも見えず、手足にうまく力が入らない。床がすぐそこなのに、水の抵抗だろうか浮力だろうか、思うように体をコントロールできず、滑ってしまう。
「ぐあああ」と叫ぶ声が聞えてきて、首を絞められている。ごぼごぼと自分から吐き出される空気。その腕をなんとかしたい。
このままでは死んでしまう。高森は何度か相手を払いのけようとするものの、殴っても蹴っても手応えがない。
いよいよ息が続かなくなり、腰の警棒を手にすると、相手の横から水面に突き出し、激しく殴りつけた。水の抵抗は大きいが、これは確実に相手に当たった手応えを感じたので、さらに力をこめた。床に足と尻がついている。
ドスドスと水の中までその振動が伝わるほど激しく打ち付けて、ようやく相手の力が緩んだ。
全身を跳ね上げるようにしてなんとか立ち上がり、相手を水の中へ倒した。肩からかけていた懐中電灯で相手を照らす。
「院長……」
水面に白衣が広がっていた。
うつ伏せで水に沈む院長をなんとか引き上げようとしたが、ぐったりとしてひたすら重い。
「院長!」
揺さぶっても反応はなく、抱えて待合室のベンチの上へ引き上げる。ベンチは水面下だが、重たい院長を水没させないためには役に立つ。高森もそこに乗って、院長の頭を膝の上にのせた。
目は開いたまま。口も開いたまま。大量の水が口から流れ出している。
心肺停止状態。
とっさに高森は、懐中電灯であたりを照らし、階段の位置を確認すると再び水の中に入った。明らかにさっきより深くなっている。いまや腰の上まで浸かってしまう。院長に襲われて危うく水死するところだった。
いや、襲ってきたというよりも、院長も助けを求めて高森にすがりついたのかもしれない。溺れる者は藁でも掴む。水難救助で心がけるべきことを高森も知識としては知っている。溺れている者はものすごい力で救護に来た者にしがみつき、溺れさせてしまうことがあるから、不用意に近づきすぎてはいけない。背後から抱えるようにして助けるのが基本だ。
水難救助の方法にならい、院長を仰向けに浮かせて運ぶ。階段を目指して歩いて進む。まだかろうじて歩ける。
ようやく階段に辿り着き、院長を踊り場へ引き上げた。そこで気道を確保し水を吐かせたが、反応はまるでない。すでに体温は下がっているのか冷たく感じる。あれだけの力で高森君を襲ってきたというのに。
人工呼吸、心臓マッサージ。しばらく続けていると、いつの間にか膝にひたひたと水が打ち寄せていた。
懐中電灯で階段の下を照らすと待合室は、プールのようにしか見えない。もはや歩くことはできそうにない。
「どうしました!」
上から声が響いた。川田の声だ。
「院長が!」
彼女がおりてきて手伝い、院長を二階へ引き上げたのだが、「ダメですね」と彼女は素早く確認して宣言した。
「奥様に見せてはいけません。こっちに置いておきましょう」
随分と冷静で、むしろ冷酷とさえ言えるのだが、高森はそれも川田の看護師としてのプロ意識なのだろうと思うものの、院長を死なせた原因は自分と川田にあり、もしや自分が警棒で殴りつけたことで死んだ可能性もあると感じて、誰もいなくなった二階の病室に運ぶと、空いていたベッドに遺体となった院長を横たえた。
「さすがにここまで水は来ないでしょう」と高森。あくまでも希望的な観測だ。
「それが……」と川田は、冷静な口調で告げる。「このあたりには三本の川が流れていますが、どこかで決壊したようなのです」
「決壊?」
「はっきりとはわかりませんが、みなさん、そう言っています。町の中心も道路が水に浸かっているらしく、大混乱しているとラジオで聞きましたから。これだけの水害ははじめてのことです」
事態はどんどん悪くなっている。
「すると水はまだ?」
「どうなるのかわかりません」
「ここは少し高いところに建っていると聞いたんですが」
川田は頭を左右に振った。
「周囲に比べればわずかに高くしていますが……。古くからこのあたりにいる人たちも、この雨ばかりは予想できなかったと言っています。いまここにいる人で、これだけの災害を経験した人はいないんです」
「雨はどうなるんです?」
「予報では、朝まで続くと……」
「まだ降るんですか!」
高森はさすがに本部とも連絡が取れず、自分ひとりではどうにもならない状態になったと覚悟する。山に残した希愛があのままあそこにいてくれれば水害に遭わない可能性もあるが、もし下山したらかなり危うい。いや、山にいてもそこも決して安全とは言えない。土石流に巻き込まれるかもしれない。あれだけの崖崩れがあったのだから。
いまは確かめようがない。あれきり行方のわからない赤堀もどうなったことか。すでに絶望的なのか。
トンネルに避難した岡崎たちだけが正解だったのかもしれない。自分もあそこに留まっていればよかった。いや、あの娘を病院に運び込めたではないか。これほどの災害になるとはあの時は予想もできなかったのだ。その時々に最善の行動をするしかない。
美桜を救出したとき、高森はどういうわけか、この子を安全な場所へ早く連れていかなければならないと思い込んでしまった。どうしてそんな風に思ったのか……。
いまとなってはわからない。胸を張って自分の判断を正当化できるか、いまとなっては自信がない。
「それから、あの子ですが」と川田がその美桜のことを口にした。「私と野上以外、だれも院長室に入れないようにしたいのです」
「容体が悪いのですか?」
「とにかく、これ以上、危険な目に遭わせたくありません」
「わかりました。僕も気をつけます」
「お願いします。なにが起きても不思議ではありませんから」
二人で三階へ行くと、怒号が聞えてきた。
「なんだと、この野郎」
「そもそもお前達が」
「やめてー」
男女の声が混じっている。
高森は思わず腰の拳銃を右手で確認し、左手で日頃の訓練のおかげか無意識に戻していた警棒も確認しながら、声の方へ急いだ。
三階の休憩室で、パイプ椅子に座っていた避難してきた人たちが、全員立ち上がって、もみ合っている。
「なにがあったんですか! 落ち着いてください!」
とにかく、なんとかしなければ。高森の頭はその思いで一杯になっている。
「なにを揉めているんですか!」
一喝しても、無視されてしまう。それでもなんとかしなくては、と揉めている人たちへと向かった。
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