第41話 水位

 無意識に高森は腰につけた帯革(たいかく)に手をやった。帯革止めで制服のズボンに止めるのが通常だったが、いまはトレーナーに着替えてしまったので、落ち着かない。帯革には通常の装備が収納されている。振り出せば伸びる金属製の警棒。いわゆる65型警棒で、車に乗るときには邪魔になりがち。ジュラルミンの軽い手錠、そして重い拳銃「M360J SAKURA(サクラ)」。銃身の短い五連発のリボルバー、つまり弾を回転する胴体に装填するタイプの拳銃だ。

 刑事ドラマなどでは「いったい、何発撃ってるんだ」と思うようなシーンもあるが、警官についてはわずか五発。かつて「一発目は空砲」説もあったが、わざわざ空砲を装填するなんてことは実際はなく、実弾が五発、入っている。なお、高森は、この拳銃を水没させてしまったのだが、もちろん濡れても発射可能だ。ちなみに、通常、警官は予備の弾は持ち歩くことはない。そもそも日本では威嚇射撃さえもまずなく、練習以外で銃を抜くことのないまま定年を迎える警官が多い。

「避難してきた人は何人ですか?」と、ジャージ姿ながらも突然、自分の立場に目覚めた高森。ここの治安を守らなければならない。いえ、それができるのはいまは高森だけなのだ。その点で、ベテラン看護師の川田が病院内では実質的な権力者であることに、危機感を抱いてもいた。院長について川田の指示に従ってしまったことを後悔していた。

「えーと」と川田が指を折って数える。「木田さんのところが三人、本荘さんが三人、藤岡さん二人、それと赤堀さん。全部で九人ですね」

「入院患者は?」

「四人です。木田さんのご親戚の方、本荘さんのおじいちゃん、赤堀さんのお姉さん、あ、行方のわからないあの赤堀さんのお姉さんがおられます。先ほどの赤堀さんは息子さん。あと中松さん。中松さんはご家族はいません」

「病院は? 院長、川田さん、あの看護師さん、奥さんのほかには?」

「おりません。午前中は外来担当の小児科医と内科の医師が曜日によって来ますし、交代の看護師や介護、リハビリの専門家などが町から来ますが、今日はもうみな帰宅してます。入院患者のお世話をする人たちは、この雨で誰も来ていません」

「ほかにも避難してくる人はいそうですか?」

「このあたりの人はみなさんいらしていますね。藤岡さんは、町から移住してきて就農体験をされている方ですよ。中松さんの田畑が放置されていましたので、そこを使っていたんですけど、水でダメになっちゃいますわね。ワンちゃん連れて避難して来ました。ワンちゃん連れなので、三階の別室にいます」

「赤堀さんは戻ってないんですね」

「ええ。この雨ではどうにもなりませんわね。電話も通じないし……。みなさん、向こうの部屋でお休みになっています。ほかにすることもありませんから」

 その時。

 非常用電源でなんとか得ていた灯りがチカチカと明滅しはじめた。

「あら?」

 そして、とうとう真っ暗になってしまった。

「まさか」と川田。

「まずい」と高森。手にしていた大型の懐中電灯をつけた。

 そしてまた「まずい!」と声にする。たまたま光が玄関付近を照らしたのだが、そこいら中、キラキラと光っている。なにが光を反射させているのか。

「男の人たちを集めてください、そこにある袋を玄関に並べないと。ほかにもドアには全部」

「はい」と川田が、みんなのいる奥へ走った。

 高森は手近に積まれていた「水でふくらむ土のう」を取り出して、玄関付近に並べていく。玄関から入ってきた水を吸ってくれるのではないかと期待してのことだ。すでにうっすら床の上に水が入っており、それが懐中電灯の光を反射させていたのだ。

 そこに数人の男たちがやってきて「違う違う」と言い、横にあった緑色のプラスチックの四角い箱に袋を入れると、バケツで水を汲んできてぶっかけて膨らませていく。

「二、三分かかるが、待てないな」

 指揮しているのは消防団の赤堀ジュニアだ。

「こっちもダメだ」と裏の方から走ってきた住人。「外は水浸しになっているぞ」

「患者さんを二階へ運びます!」と川田が宣言した。「どなたか手伝ってください。こちらにも男の人が必要です」

 エレベーターが使えない。懐中電灯がなければ真っ暗闇。そんな中で、四つのストレッチャーを病室に運び込み、四人の患者をそこに移し、さらに階段で持ち上げようというのだった。

 地下から上への階段は奥に一つあるだけ。一階から三階、そして屋上へはもう少し大きな階段が病室の近くに設けられていた。

「階段用ストレッチャーが一台あるから!」

 川田がすべてを指揮していた。

 土嚢については赤堀ジュニアが仕切っている。

 こうなると高森にはすることがなかった。が、どう見ても患者を二階へ運び揚げるのが大変そうなので、そっちへ向かう。赤堀ジュニアを避けたい気持ちもあった。

 イスのような形の階段用ストレッチャーに最初の老婆を移す。彼女が、身寄りのいない中松だろう。ベルトで固定すると住人たちと神輿のように持ち上げながら、階段をゆっくり上がっていった。階段を乗り越えるタイヤがついているので安全性は高いとはいえ、慣れない作業のため時間がとてもかかる。踊り場で向きを変えるのさえも、人手は足りているとはいえ要領が悪くなかなか大変だ。

 誰もが高森ほどの腕力はなく、訓練も受けていない。

 そんな中、看護師の野上、そして「藤岡です」と名乗る若々しい中年夫婦が三階から様子を見に降りてきたのでそのまま手伝ってもらい、徐々にチームワークが生まれていく。

 一人を揚げて、空のストレッチャーを二階に引っ張りあげ、そこに乗せる。その繰り返しだ。気持ちは急いてもなかなかはかどらない。

「だめだー」と一階から赤堀ジュニアらの声が聞えてきた。

 気付けば確かに、高森たちも一階に降りるたびに水位は上昇し、いまはくるぶしまで沈んでしまう。

 三人目を揚げて、空のストレッチャーを高森と藤岡で取りに行くと、水はふくはぎまで達していた。浸水が加速度的に上がっている。階段の一段目は完全に水の中となった。水は強い意志があるかのように迫ってくる。ここを飲み込む気だ。

「二階へ移動しましょう、いや、三階がいい」と赤堀ジュニアは、土嚢作戦を放棄して高森たちを手伝い始めた。

 人数が増えたおかげで四人目の老人はあっという間に二階へ。さらに三階までいっきに持ち上げられた。

「まさか三階までは来ないだろう」と誰もが言うものの、確証はない。この上は屋上しかない。

 一階を放棄し、全員が二階へ移り、患者は三階へ。

 そして意識不明の美桜も、階段用のストレッチャーで運ぶ。手の空いた者はICUなどから必要な薬品や医療器具を、川田の指示で運んでいく。

 三階は、看護師などの休憩室、医師などが泊る場合の部屋、院長室、資料室などで、そこでもそこそこ生活のできる空間となっていた。しかも、小型の非常用バッテリーがそれぞれの部屋にあり、最小限の灯りはある。

 四人の患者は医師の宿泊用の部屋へ二人ずつ入れて、美桜は院長室に入れた。院長室にも簡易ベッドがあり、ランタン風のLEDがあたりを照らす。野上はそこに美桜を寝かせながらも、露骨に嫌そうな顔をしている。どうやらこの部屋や簡易ベッドが気に入らないのだ。

 高森でさえ、そこがどういう思い出の場所か推測できた。あえて明るく「立派な部屋ですね」と難しそうな医学書の並ぶ本棚を見上げたり、美しく折られた色とりどりの豆粒のような鶴や蟹やキリンなどの折り紙、コレクションの腕時計、鳩時計、置き時計や修理に使う道具箱と作業台などを珍しそうに眺めた。

 川田もやってきて、美桜に点滴を装着し予備の点滴などの入ったワゴンを横に置く。呼吸と鼓動のモニターも取り付けたが、それはバッテリーにつながない。

「ほかにも運び揚げるものはありますか?」と高森。

「院長……」とポツリと野上が口にした。

「しまった!」

 高森は慌てて一階へ戻る。野上や川田もやってきた。そこに呆然としている細身の女性がいた。場違いな外出着。花柄のワンピース。ヒールを履いている。

「奥様」

「あの人は? どこです?」

 険しい表情で睨み付ける。

「奥様、こちらへ。三階へ避難してください。念のためですから」と川田が手を取るようにして、腰までずぶ濡れになった彼女を階段に連れていく。

「ずいぶん、具合が悪そうですね」

「認知症なのです」と野上は冷たい。「軽度のアルツハイマーで、治療の効果はあるのでなんとか日常的な生活はできるのですが……」

「あなたも、上へ行ってください。二階には住人の方がいますよね。三階にある使っていないバッテリーを二階へ持っていくといいでしょう。安心させてください」

「はい」

 野上は階段を重い足取りで上がっていく。

 高森は、裏手にあるはずの地下へ向かう階段を探す。ICU、レントゲン室、病室、トイレなどを過ぎると、みんなが一時退避していた広い部屋に出た。その横に外に出るドアと階段があった。いろいろなものが水面に浮かんでいて、やりきれない気持ちになる。

 すでに階段は水没していた。

「まずいな」

 とても降りていくことはできない。地下は水没している。

 まさかこんなに短時間に水位が上昇するとは思っていなかったのだ。いまさらどうにもならないが、院長を地下室へ連れていったのは間違いだったことが明らかになった。軟禁するなら上の院長室でもよかったはずではないか。

 なぜ、川田は地下に行かせたのか。しかも拘束までさせようとした。

 もしも、院長があのあと意識が正常に戻っていたとしても、この水では階段を上がってくることはできなかっただろう。いまもあのエレベーターのすぐ近くの部屋で、天井付近に残ったわずかな空気を求め、もがき苦しんでいるかもしれなかった。

 それを救出することは不可能だ。

 すでに息絶えていると考えるべきだろう。高森は割り切ろうとした。

 その時。

 ドンドン、ドンドンと音が聞えてきた。

 一階の待合室の方から響いてくる。

「赤堀さん!」と高森は思わず声をあげ、そちらへ走った。なぜか赤堀のような気がしてしまったのだ。赤堀さえ無事に戻って来てくれれば、赤堀ジュニアに脅える必要はない。やましさはなくなる。

 腰にまとわりつく水は走ろうとしてもかなりの抵抗があった。重たく、凍りそうなほど冷たい水だ。

 赤堀が生きていてくれるのでは、と高森は希望を持っていったので、自動ドアが使えなくなり土嚢で塞がれた玄関で、赤堀が待っていると想像したのだった。

 ところが待合室に戻ると、音は玄関からではなかった。

 懐中電灯を玄関に向けると、水が押し寄せてくるようにさえ見える。外はもはや川なのだ。それが透明の玄関ドアに激しく打ち寄せている。水位はすでに背丈ほどもある。もしドアが壊れたら、大量の水が流れ込み、地下室だけではなく一階も水没してしまうだろう。

「赤堀さん!」

 返事はなく、ドンドンという音がまだしている。

 それはエレベーターの向こうからだと気付く。

 何者かがエレベーターの中にいる……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る