第40話 ここだけの話

「いいわ。奥様へは私からお伝えします。あなたはこの警察の方を手伝って院長を地下室へ連れていってください」

 するとあれだけ抵抗していた野上だったが、従順に「はい」と返事したのだった。そもそもベテランの川田に逆らうことなどできないと諦めている。

 てきぱきと車椅子を用意すると、二人がかりでぐったりした院長を座らせた。

 目を開けているのもおっくうなのか、まぶたがヒクヒクしているものの、言葉も出なければ手足も動かせない。

「地下にはロープがあるでしょうから、念のため縛り付けておくといいわ」

 川田の言葉は、野上にとっては絶対なのか。

 高森と野上は地下へ向かった。この医院は地下一階、地上三階建てで、ストレッチャーごと患者を運べる大型のエレベーターが備わっている。

 車椅子姿の院長を避難してきて待合室にいる住人が見ている。ラジオを奥の部屋へ持っていってしまったらしく、待合室にはあまり人はいない。奥の部屋は、ネット番組の撮影スタッフたちが待機していた集会所だ。そこはリハビリや地域の催し、健康教室などに使われている広いスペースで、避難場所としても使える。

 地下へ着くと、灯りが最小限しかないので極めて暗い。エレベーターの近くにある小さなライトだけが頼りだ。

「広そうですね」

「あまり来たことはないんです」と野上。「これがいいかしら」

 荷造り用のビニールの紐で、院長の体が車椅子から落ちないように、ぐるぐるに巻き付ける。

「あの婦長さん、どういう人なんですか」と高森君。手伝いもせず棚を眺めている。エレベーターから降りたところは、ラックに囲まれた部屋となっており、外壁の補修材、ペンキ、工具、予備の電球、高圧洗浄機、予備の洗剤などなど。ホームセンターのような雰囲気だ。

「婦長ではないのです。川田さんは自分もただの看護師だと言っています。けど、事実上はすべて彼女が仕切っていますね。ここに長くいるベテランですから。古くからの患者さんの信頼もあるので、このあたりでは知らない人はいないぐらいです」

「有名なんですね」

「人気があるんです」

 ガタイの大きな看護師の川田が人気者というのが、高森にはいまいち理解できなかった。とくに愛想がいいわけではない。お世辞にも可愛いとは言えない。むしろ怖い。院長への態度を見たばかりで、険しさしか感じない。

「さっき、院長の奥さんのことを話していましたね。奥さんとなにかあったんですか?」

 高森は、奥さんの件が出たとたん、野上がおとなしくなってしまったことに気付いていた。

 野上はなにか言いかけて「特になにもありません」と口をつぐんでしまう。

 高森は、「やっぱり、これはおかしいから、縛るのはやめておきませんか」と野上が途中まで縛った紐をすべて解いていった。そもそもあまりきちんと縛れてはおらず、すぐ解けてしまう。

 野上はただ黙って見ているだけだ。

「とりあえず、ここにいてもらいましょうか、院長には」

 野上はなにも言わない。部外者の警官に警戒している。暗がりで若い警官と二人切りになりそうで緊張もしていた。

 高森が奥を見る。ドアがあって、そのあたりは薄暗いのでよくわからない。

 ラックがある。以前はなにかが収納されていたのだろうが、すでに運び出されていてるのか、空いている棚が多い。きっと非常用の物が保管されていたのだろう。見て回ると、懐中電灯と電池がプラスチックの防水のケースに入っているセットを見つけた。中から大型の懐中電灯を取りだして、大きな電池を詰めてつけてみる。いっきに明るくなった。

「持っていきましょう」

 大小三本の懐中電灯と電池を高森は小脇に抱えた。

「はい」

 奥のドアを開けると、エンジン音が響いている。

「非常用の電源装置です」

「なるほど」

 大きなエンジンと燃料タンクがあった。危険物のマークもある。油の臭いだろうか。排気ガスのような臭いも微かにしていた。

「本格的ですね」

 話ができないぐらいの大きな音だ。

「停電になっても手術できるそうです。年に何回か、訓練で動かしていますけど、その気になれば全部の部屋の灯りもつけられます」

「なるほど。でも節電しないといけないですね」

「はい。そこに蓄電池があって、発電して溜めておくこともできるので、万が一、発電機が壊れても、その後、半日ぐらいはなんとかなります。ただ、発電機が壊れたらエレベーターは使えなくなりますけど」

「階段は?」

「その奥にあります」

 懐中電灯で照らすと、発電機の向こうに階段が見える。鉄製で、手摺りがついた剥き出しの階段だ。ここだけ見れば病院というよりは工場のようだ。

「あそこから一階の奥に出られます。そこから外に出られるんです。燃料を入れたり、ここの備品を直接、運び込んだり」

 懐中電灯を下へ向けると、階段も床もすでにうっすら水で湿ってキラキラと反射していた。

「これ以上、水が出なければいいんですが」と野上。

「行きましょう」

 発電機の音は、ドアを閉じるとほとんど聞えてこない。エレベーターの付近の床は乾いている。

 院長をとりあえずその部屋に置いて、二人は一階へ戻った。

 電池や懐中電灯はとりあえず待合室に置いた。

「これを使うことがなければいいんだけど」

「そうですね」

 そこに川田がやってきた。

「院長はどうです?」

「地下で眠っています」と野上。

「あとで見に行きましょう」と川田は冷静に答え「奥様にも了解していただきました」と付け加えた。

「野上さん、懐中電灯をみなさんのところに持っていってちょうだい。それから患者さんの様子を見てきて」

「はい」

 野上は、ホッとしたように懐中電灯と電池を抱えて病室へ向かっていく。

「川田さん」と高森は声をかける。「院長の奥さんはどちらに?」

「この奥がご自宅になっています」と一階の奥を示す。受け付けの横のドアが自宅として使っている部屋につながっているらしい。

「ここにお住まいなんですか」

「ええ。お子さんが二人いらっしゃったんですが、みな東京におりますので、奥様と二人でこちらに住んでおられるんです。クリニックの頃は、町に家をお持ちでしたが、ここを建てるときに処分したので……」

「そうでしたか。奥さん、なにかあったんですか?」

「なにか、と申しますと?」

「いや、さっき、あの若い看護師さん、奥さんが苦手なようでしたから」

 すると川田はケラケラと場違いな笑い声。

「ここだけの話ですが……。ま、この辺の人はみんな知っていることですけど、院長はあの子と浮気をしていたんですのよ」

「えっ?」

「いつものことなんです。若い子が来ると、すぐ手をつける」

 昔、若かった頃、川田もそうだったのでは、と高森も疑ってしまう。

「いまはなんでもないんですよ。院長はすぐ熱が冷めるタイプです。本来、お仕事や趣味が大好きなので……。奥様はすばらしい人ですから、そんなことでガタガタ言いません。でも、野上さんはまだ若いので、後ろめたくて奥様を避けているんですわ」

「はあ」

 面倒なところに来てしまったな、と高森はがっかりしていた。複雑な人間関係は苦手なのだ。

 このあたりの町の閉鎖的で独特の雰囲気には、赴任してから何度も驚かされてきた。町とは名ばかりで、ここのあたりは実質、村なのではないか。それも近代以前の古い村のしきたりのようなものが色濃く残っているのではないか。そんな気がしてならなかった。車で十分ほども走ったら市街地だが、そうした町とは文化がまるで違うのだ。

 高森はいろいろな地域で育ってきたこともあって、どこにでも特別な地区があり、そこにはできれば近づかない方がいい、近づくならそこの歴史をよく知っていなければ大変な間違いをしでかすと経験から理解していた。

 赤堀について、高森も責任を感じていた。それがきっと悪い印象をここの人たちに与えてしまったに違いないとも感じていた。いまは理解をしてくれているらしい看護師の川田が彼にとっても重要な存在になっていた。彼女を敵にしたくなかった。

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