第39話 野上紗椰

 院長が川田初栄を止めに戻ってきた。

「意識、あるんじゃないかしら。ウソなんじゃないかしら」

「やめるんだ」

 なおも叩こうとするので、院長はきつく背後から川田を抱くようにして止めてベッドから引き離した。

「はあっ!」

 窓を見ると、美桜ははっきり目を開いて川田たちを見つめている。その冷たい視線に、心臓をえぐられるような痛みを感じて川田はさらに暴れる。

「落ち着きなさい」

「この子、やっぱりいますぐ……」

 注射器とアンプルに手を伸ばす。遠くて届かない。

「やめるんだ」

「止めないでください。おかしいのはこの子です!」

「君、いまそんなことをしている場合じゃないだろう」

「いまだからこそ、しなくては。手遅れになります」

 川田と院長はもみ合っている。院長は男でごつい体型ながらも、川田の方が力は強い。止めることができそうにない。

 じりじりと注射器に手が伸びていく。

「止めるんだ、そんなことをここで、私の病院でするんじゃない!」

「でも、この子の母親は……」

 川田が渾身の力で振りほどくと、その勢いで院長の体はドアまで飛ばされた。ドーンと勢いよくぶつかって、その場に崩れる。

 川田はアンプルを手にし、その中身を注射器で吸い出した。

「どうしました。開けてください」

 ドアの外からドンドンと叩く音。異変に気付いた高森だ。

「院長。おわかりでしょう。開けないでください」と川田はあえて低い声で院長に命令する。「いますぐ終わりにしましょう」

「川田君……」

 倒れていた院長は、起き上がると、ドアを開けた。

 高森と看護師の野上紗椰が病室に飛び込んできた。

「どうしたんですか」

 川田は諦めたのか注射器もアンプルも台の上に戻していた。

「院長が、おかしいんです」と、真顔で院長を告発しはじめる。そして乱れた美桜のベッドをさりげなく直していく。

「え?」

 腰を激しく打った院長は苦しげに立っていたが、川田の思いがけない言葉に血相を変える。

「なにを言うんだ、君は」

「筋弛緩剤じゃないですか!」と野上は台の上のアンプルを見てびっくりする。「どうしてこんなものがここに」

「院長が、狂ったんです!」

 川田の突然の叫び。

 院長は唇を震わせている。

「な、なにを言うんだ。そんなこと、あるわけがないだろう」

「院長の許可なく、この薬品を出すことはできません!」

 川田のキッパリとした態度。野上は高森に「その通りだ」とうなずいた。高森は信じてしまう。

 それに院長はどうも様子がおかしい。

「私はなにもしていない」

「だったら、なぜこの薬品がここにあるんですか!」

「それは……」

 院長は絶句している。川田の豹変ぶりが理解できない。

「仕事に戻る」と出て行こうとするので、高森は思わず手を掴んで引き留めた。

「なにがあったんですか。あの子は無事なんですか?」

「やめてくれ。私のことは放っておいてくれ」

 高森の手を振り払う。

 その時。

「川田さん!」

 野上が叫ぶ間もなく、川田が院長の背後から接近して体をぶつけた。

「な、なにを!」

 うずくまるようにして逃げようとする院長。

「あなたはどうかしているんです」と宣言する川田。その手にはいつの間にか注射器があった。

 一瞬のことだった。手際のいいベテラン看護師の川田は、素早く院長に薬液を注入していたのだ。

 院長は首の付け根あたりに手をやって、「ぐうううう」とうなっている。

「どういうことなんですか。説明してください」と高森。

「院長がこの子を殺そうとしたんです」と川田。

「えっ」と野上も驚く。

 やがて院長は全身に薬が回って床に倒れ込んでしまった。

「だからって、そんなことを」

 高森は、川田から注射器を奪った。

「どうなるんです」

「しばらくは動けないでしょうけど、危険はありません」

「本当に?」

「とりあえず、地下室に閉じ込めておきましょう」と川田。

「どうして!」と野上は驚く。「院長を閉じ込めるなんて。その注射をしたなら誰かが経過を見なければ危険です」

「ほんの少量よ。大したことはない」と川田が断言する。「それに、なにをするかわからないじゃないですか。危険なのはこの人です」

 院長を突き放すような言葉に野上もひるんでしまう。二十一歳で看護師になりまだ一年しかここに勤務していない。大先輩にはなにも言えない。

「でも……」

 川田がそう主張しているだけで、野上にはなにが起きているのかさっぱりわからない。ただ、日頃から川田の指示に従ってきたこともあって、野上は反論ができない。

「わかりました。地下室があるんですか?」と高森。

「はい。非常食や発電機なども地下にあります。院長をとりあえずそこに置いておきましょう。ほかの人に危害を加えないように」

「なんで、そんなことを……」

 とうとう野上もたまりかねる。川田の言葉をまったく信じることができない。院長を無力化するために注射をする行為は、野上の想像を超えていた。

「野上さん」と川田は優しい声で告げる。「あなた、奥さまに説明してくれる?」

「なんて言えばいいんです?」

「院長は具合が悪いので、地下室にいますって言えばいいのよ」

「そんな……」

「それとも、奥さまと話をするなんて、あなたにはムリかしら?」

 野上は黙ってしまった。

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