第38話 川田初栄
川田初栄は、蛇角病院の前身である蛇角クリニックの時代から院長の鴻ノ巣岳男の下で看護師を続けてきた。勤続二十年近くになるベテランだ。若くして結婚したものの、離婚して子どもなし、その後長く仕事一筋で生きてきた。
「どうなんでしょうか?」と院長にうかがう。
「わからん」
院長の鴻ノ巣岳男は、病院の看板にインパクトある顔写真を掲載しているが、五十代に入っていっきに髪の毛が白くなり、写真よりはだいぶ老けてしまった。がっちりとした体格で四角い顔に四角い眼鏡。分厚い唇。不器用そうな太い指。これでなかなか器用。小さな鶴の折り紙をピンセットで作ったり、古い腕時計の分解修理をするのが趣味だ。
二人はいま、意識の戻らない女子中学生の美桜を、個室に入れて様子を見ている。当初は救急対応だったが、呼吸も心臓も安定していること、外傷が見当たらないことなどから、乾いた寝間着、いわゆる患者着を着せて病室へ移したのだ。
「困りましたね。ご家族とも学校とも連絡が取れないので……」
「急変することはないだろう。ときどき様子を見るように」
「はい」
一帯が停電となり、非常用の電源が動いている状態だ。病室の灯りも最小限のLEDのみにしていた。おまけにこの病院でもスマホ、ネット、固定電話はつながらない。
「外はどうなんだ。水はどこまで来てる?」
「駐車場は完全に沈みました。プールみたいです。たぶんそれほど深くはなく、数センチだろうとは思うのですが」
「あそこが水没したら、ここまであと一メートルぐらいしかないじゃないか。ここも危ないな。地下は大丈夫かな」
「いまのところは」
「あとで見て来よう」
「お願いします」
「発電機が水を被らないようにしないとな。せめて朝まで」
「雨が止んでくれればいいのですが」
気象予報では、雨は止むどころか、さらに降るとされている。
「ラジオの情報ではまだ降るようですけど」
川田初栄は穏やかな言い方をする。予報はもっと厳しいもので楽観できない。
「一応、地下にある大切なものは上にあげておこうか」
「はい。でも、それより、この子、おわかりになりませんか?」
「ん? なんだ?」
「そっくりでしょう」
院長は黙ってもう一度、美桜を見ます。
「宝家さんですよ」
院長はため息をついた。
「そうだな。十二年になるのか」
「はい」
「じゃあ、この子がここに来たのは、偶然じゃない?」
「実は、私の弟が今日、この子の父親に会いに行っていたはずなのです」
「弟さん? 確か休職中だったね。なんでそんなことを」
「うつ病でしばらく仕事を休んでいます。最近、だいぶよくなっていたんですが、以前よりも熱心になってしまって……」
「熱心?」
「ええ」
「困ったね。いまどこ?」
「それがずっと連絡が取れないままなんです」
ふーと院長は息を吐く。
「つまり、この子を?」
「はい」
「だったら、このまま意識が戻らない方がいいな。もしかすると、この子がここにいることは、家族も知らないだろう。だったら……」
「いま彼女をどうこうするのは危険です。あの警官が戻って来ていますので」
「警官に会わせてはいけない」
「もちろんですわ」
「面会謝絶だ。いいね」
「はい」
「チャンスがあれば……。つまりこの子があれなら……」
「そうなんです。このことは私たちでなんとかしないと」
「意識はないんだ。この子がなにかするとは思えないが」
「気をつけた方がよろしいかと」
「わかった」
「いざとなれば」
川田初栄は、ベッドのすぐ近くに置かれた台の上に、アンプルと注射器を用意している。それを目で追ったあと、意識の戻らない美桜の腕につながっている点滴に目をやった。
「仕方がないな。ここでやってしまうと意味がないんだが……」
「林道は崩れてしまったそうですから、とてもあそこには近づけませんわ」
「任せる」
院長は川田に任せてしまう。
そのとき、川田は、ふと誰かに見られているような気がした。この病室には意識のない美桜、院長、そして川田自身しかいない。窓は分厚いカーテンで閉ざされている。思わずそのカーテンを半分ほど開けてみる。
「どうした」
外は激しい雨。暗闇。窓に病室が反射している。自分と院長の姿は、この世のものではないような不気味さがある。
「あっ」
川田が凍りつく。
窓に映るベッドの美桜は、目をはっきり開けて川田を睨んでいるではないか。その目は鋭く、夜行性の動物のようにギラギラと輝いている。
ふり向くと、さきほどとまったく変わらず、目をつぶり意識はない様子。
「どうしたんだ」
院長は部屋から出ようとしていたが、振り向く。
「もしかすると、この子」
ベッドに駆けよって、思わず川田は美桜の体をゆさぶり、さらには頬を平手打ちしてしまいった。
「なにをするんだ!」
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