第37話 決意

 停電によって外の看板は消えてしまった。

 どっちへ行けばいいのかわからず、しばらく流されていた高森だが、「こっちだ」と微かな声。

 赤堀ではないか。高森は思いきって水にいったん沈み、クロールで泳ぎ出した。流れは速くはないもののとても重く強く、それに逆らうことは難しい。濡れた服を着たままの水泳はかなり困難で、クロールは諦め平泳ぎのような犬かきのような泳ぎになっていく。声の方向だと思える方へ必死に泳いでくうちに、膝がなにかにぶつかった。

 下に固いなにかがあって、立てそうだ。

 起き上がり、流れてくる小枝や細い木などを避けながら斜面を上がっていくと病院の裏手に出た。

「赤堀さん!」

 先に着いているはずなのに人影がない。

「赤堀さん、どこですか!」

 雨がときどき激しくなる。なかなか声も届かない。懐中電灯でもあれば探せるのだが。あたりが水浸しで、水かさは増している。

 病院の表に回ると、微かに灯りが見えていた。

 ホッとして病院の中へ入ると、そこには毛布などにくるまった人たちの姿があった。

「赤堀さんはいますか!」

 声をかけても返事はない。

 そこに看護師の川田がやってきた。

「まあ、びしょ濡れ」

「すみません。そこらじゅう、水浸しです。トラックも流されました」

「ええっ。よく無事で」

「赤堀さんは?」

「一緒じゃないんですか?」

「先に着いていると思ったんですが……。ぼくは赤堀さんの声を聞いて、そこに向かって泳いだんですから」

「懐中電灯、借ります」

 川田の手にしている懐中電灯を借りると、外に飛び出し、病院の周りを呼びかけながら歩く。そのあたりに倒れているかもしれない。高森を待っているのかもしれない。

 二周しても反応はない。赤堀の影も見えない。さっきまで自分がいたあたりは、いまは濁流になっていてとても近づけない。あたりはすっかり川となってしまっていた。

「まいったな」

 あの声は気のせいだったのか。それとも赤堀は声を発したあとに流されてしまったのか。

 いずれにせよ、こう暗くて土砂降りでは探しようがない。

「ちくしょう!」

 希愛を助けるどころか、犠牲者を増やしてしまった……。

 高森はうなだれて病院に戻る。

「早く、着替えてください」

 そこには非常用らしいトレーナーの上下と乾いた下着があった。下着は紙だ。かなり大きめである。

「それしかサイズがなくて……。あら、ケガ、してますね。手当しましょう」

「ありがとうございます。すみません」

「大丈夫ですよ。赤堀さんなら、このあたりのことはよくご存知なので、どこかそのあたりに辿り着いているはずです」

 確かに、気付けば立って歩くことのできる深さになっていた。それより一歩でも早ければより安全な場所へ行けたはずだ。そう信じたい。が、信じることができない。あまりにも水の勢いが激しかったからだ。

 いつの間にケガをしたのかまったく覚えていなかったが、ガランとしたレントゲン室で高森はちょっと小肥りでおっとりした若い看護師、野上紗椰から手当をしてもらった。小さなLEDライトで手元だけが照らされている。彼女から漂う石鹸のような香りが、高森をホッとさせる。

「すごい筋肉ですね」と野上。着替えているところを見ていたのだろう。高森も非常時でもあり薄暗くもあり、恥ずかしげもなく、看護師の前で裸になって着替えたのだ。彼女の目を気付いてさえいなかった。

「あ、はあ」

 急に恥ずかしくなる。

「ケガは大したことはありませんが、消毒しておきました」

「ありがとうございます」

 手や足のケガは、車から脱出するときと、泳いでいるときに出来たのか。なにかにぶつかったのか。さきほど見た濁流は、流木が折り重なっていた。

 そのときだ。

「親父は!」と若い男の声。待合室に響く。高森は、野上とそこへ向かった。

 作業着に半纏を着ている若い男と女性が立っていた。

「赤堀さん」と野上が言い、「息子さん」と高森に紹介する。

 高森は言葉がすぐ出て来ない。

「親父、一緒だったんでしょ。みんなが見ていますよ。あんたと車で出掛けるところを」

 赤堀ジュニアが詰め寄る。

 高森は「一緒でした」と答えるのが精一杯だ。

「どこですか、親父は」

 悔しげに顔を左右にふるしかない。

「どこなんです。いったい、なにがあったんです!」

「大声を出さないで」とそこに川田看護師もやってきた。

「よく平気でいられますね。ダムが決壊したんですよ」と彼は興奮状態だ。

「わからないじゃないですか、そんなこと」と川田。

「わかりますよ、そのあたりぜんぶ、水浸しなんだから」

 決壊するとの警報はあったものの、停電となり無線やネットも使えない状況では、誰もその後のことはわからなかった。

 まして、気象状況や警報も、全員が知っていたわけではない。

「雨が小降りになって、明るくなれば」と川田が言ったところで、赤堀ジュニアにはなんの慰めにもならない。

 そのとき、待合室に聞き慣れない声が響いた。

「……線状降水帯は断続的に……今後さらに激しい雨が……」

 ラジオだ。誰かが持って来たものらしい。

 高森たちもそれを聞く。避難を勧告している地域がつぎつぎと読み上げられ、それが驚くほど広範囲であることを知る。

「蛇角山の砂防ダムは決壊した模様」とラジオは冷たく告げていた。「今後、さらに水位は上昇する可能性があります」

「なんでだよー」と赤堀ジュニアは叫ぶ。「バカヤロウ!」と。

 すると奥さんらしい女性が寄り添って彼を待合室の隅へと連れて行った。

「ぼくのせいです」と高森。

「そんなことないですよ」と川田。「私は見ていましたよ。赤堀さんは自分から車に乗ったんですから」

「こんなことになるなんて……」

「あのときにはわからなかったことじゃないですか」

 川田に慰められる。

「そうだ」

 高森は慌ててレントゲン室に戻った。そこにはびしょ濡れの警官の装備一式がある。警棒、手錠、そして拳銃。

 いまこのとき、武装しているのは自分だけ。

 自分は警察官なのだ。これから起こることに対処しなければならない。そう高森は決意したのだった。

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