第36話 こりゃだめだ!

「びしょ濡れだ」

「そんなこと、どうでもいい。バスが落ちたの!」

「落ちた?」

「明日華と美波が乗ったまま」

「それで?」

「助けなくちゃ。間に合うかもしれないじゃない」

「見えたのか?」

「見えるわけないでしょ、真っ暗だもん」

「じゃあ、助からない」

「なんでよ! 助けてよ!」

「明るくなるまではムリだ。それにおれたちだって、誰かに助けて貰わないと……」

「ほかの人たちは?」

「帰って来ない」

「どういうこと?」

「みんな向こうへ行ってしまった」

 細野屋は、スマホでトンネルの奥を照らした。「戻って来ない」

 そこにはスマホが照らす範囲だけゴツゴツとした壁が反射している。そのほかは真っ暗闇。物音一つ聞えて来ない。

「ウソでしょ。誰も? 日奈子は? あの警察のおじさんは? ディレクターは? ADさんは? 音声さんは?」

「あと、カメラマンな。みんなトンネルに飲み込まれてしまった」

「冗談じゃない」と奥へ行こうとする清美を、細野屋は必死で止める。「そう言って、みんなつぎつぎと行ってしまったんだ。恐らく、この奥は危険すぎる。あの警官とちょっと奥へ入ってみたが、水が溜まっていて、それだけじゃなく異様な雰囲気で……。だから絶対に行ってはいけない」

 そのとき、聞いたことのない音が響いてきた。

 ゴオオオオオ。ブオオオオ。ドドドドド。

 地鳴り、山鳴り。空気が振動して、自分たちも震える。地震とは揺れが違う。ビリビリと電気が走るような細かな振動で、二人とも総毛立つような気持ち悪さを感じている。

「山が吠えている。蛇角山が震えている!」

 細野屋は、清美を引き留めていたのだが、そう叫びながらむしろ清美に抱きついてくる。

「なにすんのよー」

 清美は彼を突き飛ばした。トンネルの柵に背中からぶつかって、細野屋はへたり込む。その柵が、振動でカラカラと音を立てている。

「地震か?」

「やめてー、もう、いやー」

 清美もその場にしゃがみ込んだ。

「いや、これはポルターガイストだ!」

 音は大気を振動させて大きく響き渡っている。地震とは違う細かな揺れがしばらく続いた。


 二人はわかっておりませんが、例の砂防ダムが、遂に決壊してしまったでございます。

 全国の河川で氾濫を減らすために、急遽作られたダムの一つで、完成して七十年ほどになりますが、これまではしっかり役に立っておりました。

 それが十二年前の水害でいろいろなものが溜まってしまい、危険な状態になっておりました。土砂や倒木を取り除く必要があると誰もが知っていながら、なかなか予算がつかないままに今日に至っておりました。

 もっとも、この間に、山の水害以外にも、公共施設を耐震構造にするとか町の安全のための工事などでたくさんの予算が使われており、後回しになっていたのでございます。

 それに、計算上は決壊することはないと一部の専門家が言うものですから、なおさらです。もっとも都合のよいことを言ってくれる専門家の意見しか採用していなかったのでございますが……。


 大量の雨水でダムに溜まっていた土石が緩み、溢れて乗り越えていく。土台はしっかり作られていた。その上に作られた壁は厚さ二メートル以上はある。通常なら溢れたところで、下流へストレートに流れる土石を多少は減らしているため最低限の役には立つはずだ。

 それがこのときの雨は経験のない降水量となり、ダムの上流三方方向の斜面から大量の土石が流れ込んできた。そのトドメを刺すように、いわゆる深層崩壊がすぐ近くの斜面で起こり、その勢いがダムを直撃した。いわば蛇角山全体が、ダムを破壊したのだ。

 堆積した土砂の上をスルーしていけばまだしも、衝撃と震動によってその土砂も巻き込んであっという間に、計算上耐えられる重量を超えてしまった。分厚い壁もろとも崩れていった。

 ふだんならほとんど流れのない細い川は濁流となり、そのまま町へ向かって走り出した。そのスピードは最大時速四十キロ。軽トラで振り切れるかどうか微妙なほど高速であり、勢いはさらに増すかもしれなかった。


 えー、ここでこれからこのお話の予告をいたします。

 これまでのお話のまとめはあったとしても、さすがにネタバレの今後のお話の展開をするのは御法度でありますが、とりあえず、みなさまにこのお話の状況を共有していただきたく、この時点での気象予報を軽くお話しておきますと……。


 この日、一日で降った雨量は約七百ミリ。いったん雨雲が少し北へ逸れたものの、このあと夜半から未明にかけて、最大雨量九百ミリが予想され、この地域一帯に警報が発令。警戒レベル五。

 夜七時のニュースでは「これまで経験したことのない大雨が今後二十四時間、続く恐れがあります。この地域のみなさんは、これまでに経験したことのない大雨がすでに降っていると考えてください。大至急、安全な場所に避難してください。できるだけ高いところへ避難してください。避難が難しい場合はご自宅の二階以上、できるだけ高いところへ上がってください。けして河川に近づかないでください」と繰り返していた。

 つまりこの先、雨は止まないのだ。すでに経験したことのない大雨となっていたが、それ以上の雨が降る予報である。

 そんなときに、ダムが決壊してしまった。災害はまだ始まったばかりなのだ。

「だめだー、引き返そう」

 軽トラで希愛の救出へ向かったものの、警官の高森と消防団の赤堀は、途中で諦めるしかなかった。というのも、このあたりでも低い土地にある田んぼがすでに水没していたからだ。その中に道が通っているはずなのに、それが見えない。電柱を頼りに走ることも不可能ではないのだが、夜の闇と雨のせいで、よくわからない。

 とても夜、軽トラで走破できる状況ではなくなっていた。

 しかも水位はどんどん上昇している。

「こりゃ、山でなにか、あったぞ」と赤堀が叫ぶ。「こんなに水が出たことはないからな。十二年前より酷い」

 高森はバックで下がっていくのだが、見る見る水位も上昇。このままでは追いつかれてしまいそうだった。

 ようやく十字路にやってきて、そこは少し高いため、水は来ていない。切り返して病院を向くと、すぐ近くに見えた。

 ホッとしたのも束の間、突然、車輪が空転した。

「え?」

 ブオーッとエンジンが虚しく噴き上がるばかりで前に進まない。

「こりゃだめだ!」と赤堀。

 気付けば軽トラが浮いていた。浮いているだけではなく、流されていた。水は低きに流れるもの。低い場所へ流されたら、そこはいまの場所よりも深い。

「出ろ!」

 赤堀はドアを開けようとしたが、水圧でびくともしない。そのうち、ヘッドライトが水面の下に。フロントグラスにバシャバシャと水が打ち寄せ、エンジンは停止。電気系統がショートしてヘッドライトも消えた。

 窓を開けることがでない。

 もし明るければ、二人とも顔面蒼白なのがわかるだろう。真っ暗な中で、水が車内に入り込み、膝まで来ていた。

 高森はなんとかシートベルトを外し、フロントグラスを蹴る。が、なかなか外れない。その間に、車はゆるゆると流れ始める。

 ダッシュボードから非常用のハンマーを取り出した赤堀が、自分の横の窓ガラスを叩き割ることに成功した。

 そしてなんとか外へ出ていく。

 高森の側が深く沈み、横転しそうだ。高森は必死で赤堀に続いて窓から上体を乗り出す。

 高森の足が軽トラの窓のへりを蹴ると、足元から車体は遠ざかっていった。立とうとしても、足が地面に着かない。

 先に脱出した赤堀がどこにいるのかわからない。病院の看板を探そうとしても、真っ暗だ。あれほど近くに見えた病院がどこにあるのかわからない。

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