第35話 黒い影
ロケバスの前方にはなにもないのだ。ただ漫然と光が広がっているだけ。
目が慣れてきて、やがて、ロケバスのすぐ前に停車していたはずのパトカーが見当たらないことに気付いた。
「うそっ」
懐中電灯をバスの下の方へ向けます。開こうと思った前方にあるドア。そのすぐ前に前輪があります。でも、前輪のすぐ先にはなにもない。
「うあああああっ」
思わず二歩、三歩、下がる。
崖崩れはまだ続いていたのだ。パトカーはすでに呑み込まれてしまった。そしてすぐそこまで崩壊は迫っている。
いずれマイクロバスの重みに耐えかねて、前輪の下から、地面が崩れていくのではないか。
「だめーっ!」
清美は叫んだ。
怖くてもう、ドアに近づくこともできない。
するとザザッと音がし、ガクンとバスが向こう側へ傾いた。清美からは見えない側、谷側の前輪が落ちたのだ。山側の前輪は浮いている。
ドアを開けて中の二人を助けなくては。
清美は懐中電灯を投げ捨て、ドアに手をかけた。バスが向こうに傾き、腰のあたりまで浮き上がっているのでうまく開けることができない。
バンバンとドアを叩いた。
「逃げて。やばいんだよ、落ちるよ!」
すると、曇った窓を指で拭って、明日華と美波の顔が見えた。
「早く、逃げて!」
彼女たちは傾いたバスの内側からドアを開けようとしている。
ところがズズズッとバスは前に滑りはじめた。地面に置いた懐中電灯の光を浴びて、見えていた前輪のあたりは、すでに崩れた先に突き出して、ボディーが地面に当たっていた。おかげで浮いていた車体は一瞬、戻り、すぐ目の前にドアがある。
「逃げて、逃げて!」
窓が開いて、「清美!」と明日華の声がした。
「やばいよ、早く出て」
清美が叫んだとき、バスはさらに前に滑り、今度は後部が浮き上がりはじめた。映画の『タイタニック』でも見たような、これはもう最後の最後の光景ではないか。
「ああ、うっそー」
清美は濡れてすべるボディーを押さえつけようとして、ムリだとわかると、車体を伝うように後部へ。わずかに出っ張っているバンパーに体重をかけてみた。つるつる滑ってつかみ所がない。そこに両手をつけて、なんとか二人が出てくるまでこれ以上、傾かないようにしようと体重をかけた。
「誰か、助けて!」
そのとき、清美の必死の声をあざ笑うかのように、雨が再び激しくなってきた。
ザーッとあたりは雨の音に包まれ、誰の声もかき消されてしまう。
するとズズズズッとバンパーが逃げていく。バスが滑り落ちる……。
「だめー、動かないでー」
ロケバスの重みで軟弱な地盤はさらに崩れていく。
これ以上バスに触れていたら、清美も一緒に引きずり込まれてしまいそうだ。
とても人が何人いたところで、どうなるものでもない。
するっと離れていったロケバスを、清美は呆然と立ちすくんで見守るしかなかった。室内は明るいまま。
中で二人が動いている。シルエットが見える。高く浮き上がった後部へと移動してきている。窓から出ることが出来ればいいのだが……。
窓が開いた。
二人のうち、どちらかの頭が出たようだ。なにか叫んでいるが雨音に消される。
そのとき。
「いやああああああああ」
バスは無情にも、勢いを増してすべり落ちていく。
沈むタイタニック号のように、最初はとてもゆっくりと。歩いて追いつけるぐらいの速度に見えたが、急激にスピードを上げて、真っ逆さまに闇の中へ。
「きゃああああああ」
二人の悲鳴が聞えてきた。クラクションがパーンと長く長く響く。それもしだいに遠くなっていく。
崖崩れはどれほどの規模で、どれほど深いのか、想像もつかないのだが、少なくともバスはかなりの勢いで落下している。
清美は思わず目をつぶっていた。
ガガガガッ、ズズズズズッと崖を転落していく音が響く。
地面に置いていたはずの懐中電灯も、落下してしまった。つまり、崩壊は清美のすぐ近くまで迫っていた。
「あっ」
ふと目を開き、自分も危ないと気付いた清美は、慌てて下がった。
遠くでクラクションの音が響いている。が、すでにあたりは闇。ヘッドライトもバスの車内の灯りも見えない。
いかにも悲しげなクラクションは、しだいに谷の方へズレていくようで、同時に音もこもって小さくなっていった。
二人はどうしたのだろう。クラクションの音とともに、二人の命も消えていくような気がしてならない。
希愛と警官で救出した中学生のことを思い出す。
生きていれば、這い上がって来るかもしれない。
懐中電灯を失い、あたりは真っ暗闇。足元のどこから崩れていくかもわからないので、崩れた端までいって確認することなど、到底ムリだ。
そうだ、助けを呼ぼう、男たちを連れて来よう、そうすれば……。
清美は再びトンネルへ向かって走り出す。
無我夢中だ。体力も限界。気力も限界。土砂降りの林道を必死に駆けていく。真っ暗で雨粒も大きく顔に当たると痛いぐらいだが、自分は道の上にいるはずだと思っている。
ただ、感覚だけが頼りで、もうトンネルかと思えばまだ坂が続く。このカーブを曲がっていけばトンネルだと思ってもまだ着かない。
情けなくて泣きながら、ようやく道が平坦になっていることに気づくと、そこがトンネルだった。
倒れた柵がぼんやり見えて、手で触ると間違いない。
傘を差すことも忘れてびしょ濡れになっていた清美。真っ暗なトンネル。誰もいない。
「なにやってんのよ!」
度鳴ってみる。自分にも彼らにも無性に腹が立つ。
「バスが落ちちゃったのに!」
すると黒い影が動いた。
「バスが?」
激しい雨音にも負けない、いい声。霊能者、あるいは無能者の細野屋だ。
「はあっ」と思わず力が抜ける清美を、彼はがっちりと抱き寄せてトンネルの中へ連れていった。
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