第34話 違和感

 清美は、トンネルの入り口で、震えていた。かろうじて雨はかからないのだが、頭の中にはずっと雨音がこびりつき、脳の中まで雨水が浸食しているような気がしてくる。

 なにかよくないことが起きていることは間違いなかった。

 誰かに見られているような気もする。奇妙な足音は止まったものの、その正体はわからないままだ。

 ディレクターたちが、録画を確認している。ヘッドホンで聞いている。

「確かに聞えてるよな」

「なんでしょうね。行進しているみたいな感じですよね。音効さんが、袋に入れた岩塩とかを押し潰して作る音みたいな……」

「行進だよな、そうとしか聞えない」

「もし人なら、かなりの人数ですよ。だけど、そんなもの、いるわけがない」

「もう聞えないよな」

「このトンネルの前で止まった気がします」

 スーツケースを取りにいった明日華と美波はまだ戻って来ない。いくらなんでも遅すぎる。もしかすると、ロケバスにいるのではないか? あそこなら、ここよりもっと楽に休めるだろう。乾いているだろう。雨音も少しは小さくなって、脳の中の水浸し状態を改善できるのではないか。

「ディレクター、わたし、行きます」と清美はきっぱりと告げた。

「え? どこへ?」

「ロケバスです。こんなところにいられないです。頭がおかしくなりそうです。あの二人、きっとバスに乗ってるんです、ここには戻って来ませんよ」

「困ったな、警察の人も戻って来ないし……。それに、怖くないのか、外に出るの」

「ここにいたって怖いです。同じです」

「同じじゃないよ、ここなら先生もいるんだし」

 霊能者・細野屋のことだ。いまのところ、なんの役にも立っていない先生だが。

「どこに行っても逃れることはできない」と細野屋。「このトンネルからも、この山からも、もう逃れることはできない」

「だから、そういうの、いいですって」とディレクター。カメラが回っていないときには、先生に向かって極めて冷たい。なにかこの二人の間にあったのか。そんないざこざに清美は関心がない。

「行きます」

 キッパリ宣言して、「日奈子が戻ってきたら、ロケバスに行ったって伝えてください」とビニール傘を持って、トンネルの外へ出ていった。

「おい、懐中電灯、持って行くなよ!」

 しかし、清美にはその声は届かないのか無視されたのか。

「ちくしょう、もうないんだぞ、懐中電灯」

 岡崎が一本持っていき、その前に高森が一本持って行ったので、これで警察の用意していた懐中電灯はなし。そしていま清美は、ロケバスに積んでいた非常用の懐中電灯を持って行ってしまった。

 残るは撮影用の照明だけだ。ただ、これはいざというときに必要なので、カメラを回す時だけにしか使いたくない。

 トンネルのあたりは、暗さがさらに深くなっていく。

 通信のできないスマホを、懐中電灯として使っている。それも、節約しながら。少しでも使えそうな予備バッテリーを撮影隊はみんなでシェアしている状態。

 おかげで、真っ暗になる時間は長くなっていく。

「おい、行くぞ」

 ディレクターは、スタッフたちに声をかけ、トンネルの奥を撮影しようと準備をはじめた。「バッテリーがなくなったら撮影もできなくなるからな」

「やめておいた方がいい」と細野屋の言葉は無視される。

「先生はここにいてください。奥に行った人たちを探すだけですから。ホントに、なんの役にも立たない人ですね」

 ディレクターはとうとうホンネを口に出す。

「正直、霊能者を頼んだのに、やってきたのがあんたでガッカリでしたよ。十五年前のこと、あんたは忘れているだろうけど、こっちは覚えているんでね。おれが駆けだしの頃、あんたはそこそこ売れていた。なんとかって劇団の出身で演技力も少しはある。それにその声だ。重宝がられていた。だけど、霊能者なんてウソですよね? 除霊なんてできやしないんだ」

 細野屋は沈黙する。

「いいか、みんな。こいつ、口だけだからな。信用するなよ」

 捨てゼリフを残して「行くぞ」とトンネルの奥へ進んでいく。

 撮影用のライトによって、トンネルの天井、壁が浮き上がる。複雑に入り組んだ襞は、内臓を思わせる。人々の手で掘られたトンネル。その陰影の中に何人もの顔が浮かび上がっているようにも見える。たくさんの目で見られている気がする。

 細野屋には見えていた。このトンネルに巣くう多数の霊と、それを取りまとめているらしい邪鬼を。そこかしこに、恨みを持つ者たちの苦悶の表情がある。ここで命を落としたまま顧みられることなく、埋もれていった人たちだ。

 やがてライトはトンネルの奥へ消えていった。

 ひとり取り残された細野屋は、シートにへたり込み、底に少し残っている冷たい缶コーヒーを飲み干した。


 さて、こちらは勢いよく飛び出してしまった清美。雨は小降りになっているとはいえ、道は川のように水が流れ、懐中電灯の照らす範囲は狭いので不安が大きくなっていくばかり。

 ただ「くそー、あいつらー」とロケバスでヌクヌクとしている明日華と美波への怒りだけが彼女を突き動かします。


 肌寒い。お腹もすいてきた。なにもかも濡れてしまい、不快でしかない。

 自分のビチャビチャと水を跳ね上げる足音が大きく響く。

 靴も靴下もしっかり濡れているが、バスには着替えがあるはずだ。あそこには乾いた服がある。お菓子もあるはず。

 二つ目のカーブはかなり急な斜面となっていた。ズルッと靴が滑り、あっと思ったら尻餅をついていた。

「ちくちょう!」

 かなり激しくお尻を打って痛い。

「なんでこうなるのよ!」

 いろいろなものに腹を立てる。

 その怒りでさらに足早になる。

「あっ」

 思わず声が出る。というのも、バスのエンジンがかかっている。あの二人にそんなことができるのか。どうしてそんなことをするのか。

 少しずつ近づくと、徐々にわかってきた。後部の窓が白く曇っている。それがボウッと光って、全体が行燈のよう。

 暖房をつけたいからエンジンをかけたのだ。キーは差したままだったのだろう。清美はそこまでは覚えていない。

 ただ、その光景を見て、清美だけが取り残されたかのように感じていた。ロケバスの中で、明日華と美波はきっと楽しく快適に過ごしているのだ。

「バカバカしいったらないじゃん」

 さらに勢いをつけて前方にあるドアへ向かった。

 その時。

「え?」

 強烈な違和感に足が止まった。

 なにかがおかしい。なにがおかしいのか。

 しばらく清美はヘッドライトで切り裂かれた闇を眺めていた。その闇は、これまで歩いてきた道を包み込んだ闇よりもさらに深い。

「えっ、ええええっ!」

 ヘッドライトはなにも照らし出していない。光を受けて反射するものが、この先にはない。

 なにも。

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