第33話 岡崎守

 音声さんの声に、全員が黙ってしまう。

 気付けば雨の音よりも、ザッ、ザッ、ザッと何者かが近づいてくる音の方が圧倒的に大きくなっていて、それがトンネルに反響して背後からも響いてくる。まるでドルビーサラウンド効果。

「明日華たちだったら、絶対に許さない」と清美。

 その時、ふと音が消えた。

 不思議と雨も弱くなっている。

 ディレクターは懐中電灯を闇に向けた。そこには三分の二、残った柵がある。柵は人を入れないための粗い格子状で、そのおかげで少し安心感を抱く。

 ところが、そのディレクターが「うわあああ」と懐中電灯を落としそうになった。

「どうした」と岡崎。

「なにかいる!」

 岡崎が懐中電灯をひったくった。それを闇に向けると……。

「ぎゃあああああ」

 横たわっていた日奈子が突然、叫びながら起き上がる。

「ぎゃああああ」

 柵の向こうを指差し、脅えた表情のまま固まっているかと思ったら、清美の腕を振り払い、トンネルの奥へ走り出した。

「来ないで! いやああああ、来ないで!」

 日奈子は闇に消えてしまう。

「なに、なにがあったの!」

 清美にはわからない。

「だめだ、奥へ行ってはいけない!」と度鳴る細野屋。

 追いかけようとした清美を、背後からがっちりと肩を掴んで引き留めた。

「行ってくる」と岡崎。懐中電灯を今度はトンネルの奥へ向ける。

「いったい、なにが起きているんだ、なにが見えたんだ」とディレクター。最高の映像、最高のドキュメンタリーになると確信しつつ、いま自分が震えているのは興奮なのか恐怖なのかもわからず、この状況を映像にとらえきれていないもどかしさに、髪をかきむしっている。

 岡崎は、いままで何度か恐ろしい目にも遭ってきた。警ら中に薬物中毒の男に包丁で刺されそうになったこともあれば、交通取締の応援中にバイクに轢かれそうになったこと、車上荒らしの逮捕現場で野次馬を整理していたら、興奮した犯人の仲間らしき男から突然殴られて意識が遠くなったこと、合宿訓練中に前夜の酒がたたって、嘔吐と下痢でトイレに閉じこもったことなどなど。

 そういう恐怖に比べれば、いま再びトンネルの奥へ進む恐怖はまるで性質の違うものだった。

 行ってはいけないとわかっているのに、行かなくてはならない。あの気持ち悪さをまた味わうのは耐えられないかもしれない。細野屋と一緒に入ったときには、口には出しなかったが、体の芯から冷たいなにかが全身に広がり、このまま凍ってしまうのではないかと感じたのだ。

 その寒さがさっそく岡崎に取り憑いてくる。それでも必死に足を動かして進んでいく。

 カチカチと歯が鳴るほどの寒さ。手が震えて懐中電灯の明かりもブレまくる。

「おーい」と奥へ声をかけてみたが、逃げた日奈子の姿は見えない。最初のカーブを抜けても、そこにはいない。二つ目のカーブの先は足元に水が入り込んでいる。ビシャビシャと音を立てて歩く。

 耳元、背中をなにかが触れては遠ざかるような、なんとも言えないおぞましさ。

 そのたびに全身は冷たくなっていく。このままでは心臓が止まるのではないか。

「あっ」

 足が引っぱられ、岡崎は仰向けに倒れた。懐中電灯は手を離れてしまう。水中に落ちている。

 それを取ろうとしたのに、足がさらに強く引っぱられた。

 凍り付きそうな体は自由に動かず、その力にあらがうことができない。

「うううううう」

 ようやく手を伸ばし懐中電灯を手にした。そして前に向けた。

「うおおおおお!」

 なんとも言えない岡崎の叫び声がトンネルに木霊した。

 光の中に、ぐっしょりと濡れた女の顔。

 その女が岡崎さんにしがみついている。

「た、す、け、て」

 それは、滝川日奈子ではないか。

 いや、違うかもしれない。そもそも岡崎は、若い女子たちの区別がつかない。みんな同じように見える。しかも、会ってから間もない上に、しげしげと眺めたわけでもない。

 冷え切った彼の手は、女の体を掴んでいるが、それもびしょ濡れで冷たい。生きている人間とは思えない。女の細い指は、彼のわき腹に鋭く食い込んでいる。えぐるように。

 必死な人の馬鹿力なのか。あるいはネイルをナイフのように研ぎ澄ましているからなのか。それとも、この世のものではないからか。

「やめろ、やめろ!」

 岡崎は叫びながらなんとか足を動かし、その女を蹴った。

 あっけなく女は体を離れていった。

 上体を起こした岡崎が、懐中電灯の中で、水の中に浮く女を見つめる。どう見ても幽霊ではない。化け物でもない。若い女。つまり日奈子ではないか。

 しまった、と思ったものの、手を差し出して、彼女を掴めば問題はないはず。

 ところが、一瞬で彼女の姿は水面から消えてしまった。

「どこだ!」

 右手に懐中電灯を持ち、左手で水面の下を探って這うように進むと、再び岡崎を恐怖が包み込んだ。

 左手にあったはずの地面がない。

 膝のすぐ先のところで、手応えがなくなっている。

「おい、どこだ。出てきてくれ!」

 懐中電灯には、しばらく奥まで続いている水面。その先は右に曲がっているようで濡れて光る壁が続いている。人影はない。

 手で探ってどれぐらい深いのか探ろうとしたときだった。

「あっ」

 その手を掴まれた。

 そのまま頭から水の中へ引きずり込まれた。

 懐中電灯の光も一緒に沈んでいく。

 しばらくするとその光も消えて、トンネルは闇に包まれた。

 なんの音もしない。

 冷たい風がどこからともなく吹き抜けていくだけなのだった。

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