第28話 殺されたのよ
いま落ちて行った土石流はこのあとさらに勢いを増して、下の方ではもっと大きくなっているのではないか。
この道の先も流されてしまっているかもしれない。
「急ごう」
立ち上がると、再び希愛の左膝がピキッとなり、その強烈な痛みに思わず「ぐうう」とうなり声を漏らす。最初に膝を痛めてから十年近くなるというのに、あの頃の痛みがそっくり再びやってきたようで、震えが止まらない。
忘れてないだろうな、この痛みを。おまえは一生、苦しむんだ──。そう言われているような気さえした。
柔道でケガをしたのではなく、友だちとソフトボールの試合をしていて滑り込んだときに受けた傷がきっかけだった。強烈な痛みに立てなくなり、救急車で運ばれ、いったんはまた柔道の練習も出来るほどに回復したものの、今度は柔道の練習中に再びやってしまった。このときは膝をかばって腰まで痛め、手術と治療で二週間ベッドから出られなかった。長期のリハビリをしたものの選手としては諦めるしかない状況になっていた。なにより心が折れた。
もし、あの痛みがまた来たら……。そう思うだけで思い切って体を動かすことができなくなった。
「若いからまだまだチャンスはある」と慰められても、若いからこそ、絶望も深く、希愛はすっぱりと諦めたのだ。
逃げと言われてもしょうがない。
あのとき、しがみついていたら、もしかするといまのスポーツ医学ならそれなりの回復も見込めたかもしれない。ただオリンピック選手でもない自分に、そこまでの時間とお金をかける価値はないと、彼女なりに諦めたつもりだった。でも、いま思えば、ただひたすら逃げたのだろう。
もし立ち向かっていれば……。
社会人になって芸能事務所で働くようになってから、ストレスも多く運動も不足し、体重を減らすどころかやや増えていたことも、膝や腰には悪い影響しかなかっただろう。
少女を担いでいる高森から、しだいに希愛は遅れるようになった。幸い、道は土石流とは反対側へ下っている。かなり下ったところで、平坦な道も増え、藪も邪魔するほどではなく、足元の砂利も増えてきた。人里が近い。もう少しだ。
「大丈夫ですか?」
わざわざ高森は希愛を待ってくれている。懐中電灯の光に、疲れ果てた高森の顔。最初に見たときの若さはかなり削がれている。
「見てください、あれ、病院だと思います」
木々の間から、遠くの灯りが見えた。それは病院の壁面にある「蛇角病院 院長 医学博士 鴻ノ巣岳男」を夜間も照らすライトではないだろうか。山側からは「夜間救急」の看板は見えない。
それにしても、いまの希愛には絶望的に遠く感じる。山を下り終えても、そこから平坦とはいえ舗装された道路をかなり歩くことになるだろう。
「すみません。私、動けないので、先に行ってください」
高森はなにも言わない。疲れていた。
「どうか、先に」
「わかりました。病院についたらすぐ助けに来ます。懐中電灯のバッテリーに注意してください」
「懐中電灯、持って行ってください」
「いや、あなたの位置を誰かに知らせるために必要になる。山道はもうすぐ終わるので、こっちはなんとかなる」
希愛は、闇に消えていく彼らを見送った。
また逃げるのか……。なぜ立ち向かわないのか……。だってこんなに痛いんじゃ、ムリでしょ、いまはこれ以上悪化しないように、じっとしていた方がいい……。
雨はまだ降っている。
草の上にへたり込んだ希愛。ポンチョにバラバラと当たる雨音にうんざりする。
「あー、もう!」
自分にも腹が立つ。
一時的に暖かかった下半身も、いまは冷たくなってきた。
なにをしても痛いので、しばらくは動けないと判断し、落ち着くために貰った缶コーヒーを口にした。その甘ったるさ。高森に渡すべきだったと後ろめたさを感じながらも、甘いもののおかげで少しは気持ちも落ち着いてきた。
ポンチョを叩く雨音が、頭の中の半分ぐらいを占めている。脳が半分、水浸しになったような気分。それだけ考える力も失われている。感じることさえもしだいに鈍くなっていく。
ザーザー、ポロポロと続く音。それがだんだんリズムのように感じられる。ザッザッ、ザッザッ。
なんの音だろう。雨がポンチョを叩く音に決まっている。いや、そうじゃない。違う気がしてきた。
希愛は、なにげなくフードを払って、直接聞こうとした。
ザッザッ、ザッザッ。
間違いなく、雨とは別の音。まるで誰かが歩いてきているような。
「もしかして」
希愛は立ち上がった。膝にグサッとえぐるような痛み。
「うううう」と痛みに耐えて「こっちよ、こっち!」と声を出した。懐中電灯をいまこそ振るのだ。
ディレクターたちがもしかして、この道を降りてきたのではないか。
そんなことがあるはずもないのに、そう思ってしまった。
「はああああ!」
思考力、判断力が鈍ってきた希愛の目には、雨の中、こちらに向かってくる人影が見えた。
二列縦隊。
見たことのない制服を着た兵士たち。
「な、なんでこんなところに」
殺されるかもしれない。懐中電灯を消した。あたりは真っ暗。
希愛は体を低くして、藪の中へ身を隠した。といっても彼女の体型だけに、完全には隠れない。
男たちはぼんやりと姿が見えていた。真っ暗なはずなのに、影のようにくっきりと雨の中に見えている。ところどころ、なにかが光って輪郭が浮かぶ。
びしょ濡れの軍服。足元は包帯を巻いたようにきれいに布が巻かれています。ゲートルというものだが、希愛の知識にはない。いまで言うレギンス。第二次世界大戦時には、兵士はもちろんのこと、日本国内で多くの市民や学生たちが布を巻いて足首からスネのあたりまでしっかりと保護することが義務付けられていた。戦争時に物心ついていた男性は、ほぼみんな、自分でゲートルを巻くことができた。それをしっかり巻けなければ男子ではないと言われかねない時代だったのだ。
そんな古めかしいスタイルの軍人たちが、足音を立てて希愛の方へ近づいてくる。
二人、四人、六人、八人……。
息を飲み込むようにして隠れていた希愛だが、膝の痛みに同じ姿勢を続けられず、動きたくなってきた。いつまで続くのか。
十二、十四。
そこで隊列は消え、ふっつり足音も消えた。
残るのはザーザーという雨音だけ。
幻だったのか。
そもそも、びしょ濡れの地面は草や砂利や水たまりなので、あれほどはっきりした足音が響くはずはないのではないか。
音がするとしても、もっとビチャビチャと水をはねる音がするのではないか。
希愛は、ようやくあれが幻だと確信した。
「変なもの、見ちゃった」
藪から出て道に戻ると、あれだけの人数が通った形跡もない。
「あああああ」
今度は甲高い声が聞えてきた。
発生練習をしている……。
「ぶるるるるるる」と唇を激しく震わせるような音。これも歌う前によくやるリップロールと呼ばれるもの。
「頭がおかしくなりそう……」
人間というものは、そこになにもなくても、人影や人の顔に見えてしまったり、知っている人の声に聞えてしまったりするものだ。幽霊は外にいるのではなく、私たちの脳の中にいると言われている。
たまたま耳にしたり目にしたものを、私たちの脳は記憶のデータベースに照らして似たものを紐付けてしまう。
それはまるで、ネコノミニコンたちのライブ直前の楽屋のよう。「キャハハ」と笑い声もしたような気がした。
「あー、こんなところにいた!」
はっきり耳に届いたのは、美波の声だ。
「希愛さーん、なにしてるの!」と今度は清美だ。
「どうしたの、みんな降りてきちゃったの?」
希愛は立ち上がり、膝の激痛に悲鳴を上げそうになって、中腰のまま固まってしまった。歩くなど、とてもできそうにない。
声は、さっきまで隠れていた藪の中からしている。
「希愛さーん、どうして私たちを見捨てたの?」
「そうよ、あんな泥だらけのおかしな女が大事なの?」
「あーあ、だから、みんな死んじゃったんだよ」
「正確には殺されたのよ」
「みんなが殺されたわけじゃないわよ」
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