第22話 こっちこっち

「おかあさん?」

 心の中で問いかけた。幼い頃に亡くなった母のことは、残された写真でしか知らない。美桜を生んで間もなく、母は事故に巻き込まれて行方不明となった。残されたのは母の在りし日の姿を記録した携帯電話だけ。美桜は自分でも古い記録を調べて、そのときになにがあったのか知ろうとした。

 父はあまり詳しく教えてはくれなかったのだ。「前を向いて行くんだ。そうしないとお母さんも悲しむから」と言うばかり。父親自身も、母の消失を受け止めきれていないのかもしれない。

 その日も雨だったらしい。母は当時、よく山へ行っていた仲間たちと蛇角山周辺をハイキングしていたらしく、蛇角山トンネルのあたりで撮った写真が残されている。携帯にはそれが最後の写真となっている。その後、雨が激しくなり下山をはじめたところ土石流に巻き込まれてしまった、と専門家たちは推測していた。一緒に行った仲間は、蛇角病院の人たちが中心で五、六人いたのだが、二人はなんとか自力で脱出して軽傷、ほかの人たちはたまたま場所がよかったらしく巻き込まれずに済んだ。

 すぐに通報されて救助隊が組まれたものの、美桜の母の姿は発見できなかった。

 蛇角病院は美桜が生まれた場所だ。その出産から母は健康を損ね、入退院を繰り返していたこともあって、すっかり病院の人たちと仲良くなったのだ。健康のためにと、山歩きを誘われると一緒に行った。一度や二度ではない。

 その母は、名を時子といい、地元の出身だった。病院にも地元出身の者がおり、時子を昔から知っている者は、時子自身も母親を幼い頃に失っていることを知っていた。

 これもまた、まさに重ね重ねの話である。江戸時代の人柱伝説で登場する娘のトキ、そして蛇角山の土石流で犠牲となった時子。偶然とは思えない符合だ。

 その時子の声なのか、あるいはこの地で村のために身を捧げたトキという娘の声なのか。

「早くこっちへ」と声がして、美桜は素直にもがくようにして後ろのドアの隙間から外へ出ようとした。

 なにかに左の足首がはさまったのか、びくともしません。

 右足でそこを蹴ると「ぐああ」と恐ろしい声。

 家にべったりと血痕を残して、自分を誘拐した男。運転席と杉の木に挟まれながらも、彼女の足首を両手でガシッとつかんでいるのだ。

「逃げるのよ」

 優しい声はずっと耳の奥で響いているが、男の手が外れなければ逃げられない。

「んんんん」

 口が粘着テープで塞がれたままなのもいとわず、美桜は声を上げながら思い切り右足で男の手を蹴った。靴が脱げてしまっているので、うまく力が伝わらない。その時バキバキバキッと激しい音がして車がさらに大きく傾いた。遂に横倒しとなると、ずるずると落下を始めた。

 そのせいだろうか。あるいは木がズレたから、突然、男の手が離れた。

「いまよ! 来なさい!」

「おかあさん!」

 美桜は思い切り今度は木の枝と車のシートを両足で蹴って飛び出した。車が横倒しになるときに、開きかけていた後部のドアが完全に開いた。

 冷たい雨。冷たい泥。美桜は車の外に出て、手は固い岩をつかんでいた。

「ぐあああああ」

 そんな声が本当にしたのかどうかわからない。奇妙なうめき声と軋むような音が連続し、ふと背後を見ると、さっきまで自分が乗っていたワゴン車とそれを貫いた杉の木はゴロンとさらに横転して逆さになっていた。恐ろしいのはそのあとで、勢いがついてゴロンゴロンと二度三度と転がって闇の中へ消えていってしまった。

 最後に、わずかに残ったルームライトも闇の中で見えなくなった。土砂に埋まったのかもしれない。

「こっちよ」

 その声を頼りに、美桜は固い岩に手をやると体を引き上げていく。すぐ横をどろどろに雨を含んだ土砂が流れていくのだが、そこだけはしっかり体を支えてくれる。あたりは暗闇で雨まで降っているのに、美桜には手掛かりなる岩角が光って見えるような気がする。そこに手をやり体を引き上げると、靴下だけの足は自然に動いて、滑りやすい地表に足がかりを見つける。

 かつて多くの工兵隊たちが苦労して築いた作業用の道に、いつしか彼女は辿り着いていた。

「こっちこっち」

 心なしか声は小さくなっていくが、明るい響きを感じる。

「はあっ」

 あれだけ剥がれなかった口の粘着テープも、濡れたせいなのか、自然に剥がれていき、なにか気持ち悪いものが顔についていると拭ったときに、きれいに取れてしまった。

「どうすればいいの?」

 声が出た。美桜は暗くなっていく山の中でそう問いかけたものの、もう声は聞えない。雨が地面や木々を打つ音ばかり。

 途方に暮れていると、チラッと灯りが見えた気がした。それはホンモノの光。目を凝らすとかなり斜面の上の方で灯りが動いている。白っぽい光が木々を照らし、さらに赤い灯りもときどき見えているではないか。誰かいる。

 激しい雨の中、美桜は必死でそこへ向かって歩いていった。

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