第20話 大きな男

 一番近い家は美桜の叔父が住んでいた。優しい叔父を思い出すと、少しは落ち着く。

 そう思ったとき、背後に気配を感じて振り返ると、大きな男がいた。

 傘も差さず、灰色のコートをぐっしょりと濡らし、肩まである長髪は少しクセのあるカーブを描きながらも水をたっぷり含んでいる。

 なによりもその形相。血走った目。浅黒い肌。分厚い唇から漏れる歯。そして、なにか叫んでいる。

「ひいいいいいい」

 美桜の足がすくむ。

 男は巨大な包丁を手にしていた。

「待て! お前が必要だ」と男が怒鳴っている。見たこともない男。この近隣の者ではなさそうだ。

 止めてあるワゴン車の影に回り込み、美桜は必死に逃げる。男は素早く動き、あっという間に追い詰められてしまう。

「母親にそっくりだ」と男が言い、美桜の首を片手でむんずと掴んだ。その濡れたコートの袖口を彼女は引き離そうとしたが、とても力ではかなわない。

 やがて包丁を持った手が目の前に。べっとりと血糊がついている。雨を受けても流れ落ちないほど……。それが男の指に、手首に、袖口に流れていく。

「おとなしくしろ。おまえを生かして連れていかないと意味がない」

 わけがわからないことを言われて、悲鳴も出せず、ただ脅えている美桜。男が片手で彼女の首を圧迫している。その力のすさまじさ。首がポキッと折れてしまいそうだ。美桜は、そのまま失神してしまった。

 いわゆる頸動脈を抑えられて、格闘技で言うところの落とされたようなものだろうか。大男は片手でそんなことをやってのけた。

 力なく濡れた地面に崩れていく彼女を、男は見つめている。

 深いため息をついて気を取り直し、ポケットのキーを操作するとピピッと音がし、ワゴン車のロックが解除された。スライドドアが開いた。彼は彼女を中へ引きずり込んだ。

 シートには用意されていた縄があり、彼女をシートにうつ伏せにすると両手を背中で合わせて縛り、さらに足にも縄をぐるぐると巻き付けた。

 仰向けにし、幼さの残るその顔をしばらく眺めていた男だったが、彼女の口に粘着テープをしっかりと貼りつけてしまう。びしょ濡れであっても、きちんと貼れる特殊なテープなのだった。

 男は、運転席に乗ると、スライドドアを電動で閉じて車を発進させた。

 あたりはほんのりと暗くなって、雨がさらに激しくなってきた。

 美桜は知らないのだが、家の中には、無惨にも父親と兄二人の遺体が残されており、だいぶあとになって発見された。

 郷土史の話をしにきたはずのこの客。最初に仏壇に手を合わさせてくれと頼むので、そこに通すと男はじっと遺影を睨んでいる。奇妙な人と思いつつ、十二年前に亡くなった妻のことを知っているのかもしれないと興味を持った父親。

 仏壇には最後に撮られた写真が飾られている。携帯電話の中に残されていたものだ。

 にこやかに笑っている女性はハイキングに行くような服装。チェック柄のシャツ。帽子も被っている。リュックの肩紐が見えている。その背後には、丁寧に積み上げられたレンガのアーチがある。

 それは十二年前の蛇角山トンネル。その前で撮られた写真だった。

 この頃はまだ入り口を鉄柵で封鎖していなかったらしく、漆黒の入り口付近が見切れている。

 男はそのまま無言で背後にいた父親の腹部へ包丁を突き立てた。えぐるように包丁を回し、大量の血が出るのも気にすることもない。父親は言葉も出ず、いわゆる外傷性ショックの状態から血を失っていき、虚血性の心停止へと向かっていきながら、仏間に倒れて息を引き取ったのだった。

 仏壇にも仏間にも大量の血があふれる。男は自分も浴びているのに、まったく気にしていない。

 流れてくる軽快な音楽を頼りに兄の部屋へ踏み込み、ベッドに座って本を読んでいる長男の首を包丁で切りつけた。動脈からの血がビューッと天井まで噴き上げた。ほぼ即死。

 異変に気付いた二男が飛び込んできて、男の背後から止めようとしたが、大男の力で一瞬で壁まで吹っ飛ばされてしまった。

「やめろ!」

 叫びながら這うように逃げる。

 追う男。ついに玄関のところで足首を掴まれ、二男は背中から包丁を肝臓まで切りつけられて絶命した。

 その遺体を男は玄関から見えないところへ引きずっていき、美桜の帰りを待っていたのだった。

 この男の運転するワゴン車は、豪雨の中、蛇角山の林道へと向かっていく。

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