第19話 お話変わって……
お話変わって……。まだまだ続きはございますが、ここでちょっと別の大事な話をしておかなければなりません。
冒頭に「
そのときそこにいなければ、そのとき、それをしていなければ、そのときあんなことを思いつかなければ、といったいろいろなことが重なっての事故というものであります。
HHKといった言葉、ございますよね。NHKではありません。Hが多いのでエッチな話でもございません。ヒヤリ、ハット、気がかり。それを略してHHK。さまざまな現場で安全重視のために、このHHKを確認することで防ごうといたします。
このお話も、HHKだらけなのでございます。しかもそれが重なっております。
希愛さんたちの話になにが重なるのか。それをお話しなければならないのでございます。ですが、みなさんの耳は二つ。語る口は一つ。重なる話を同時進行的にお伝えすることは難しいのでありまして、しばし、いまトンネルに向かおうとしている人たちから離れて、別のお話をいたすことになります。
父親はかつて学校の教員だったがいまは退職し、趣味は郷土史に明け暮れている。いずれ研究をまとめて本にしようと意気込みも、いつしか棚の中に収まった旅行の記念品のように、そこにあることはわかっていても直視しなくなっていく。
蛇角トンネルをめぐる古い話を掲載した郷土の伝承についての本も、彼のコレクションに入っている。
ただ彼はこうしたあやふやな伝承、伝説、怪奇譚よりはもっとしっかりとした証拠のある歴史的な事実を探ることが主で、それほど重視していなかった。それでもこの故郷にひっそりと残っているトンネルは研究対象ではあった。入り口に積まれたレンガはどこから運ばれてきたのか。そもそもいつ誰が作ったのか。近隣の神社仏閣の資料などにあたって史実として調べていた。
そこは天然の洞穴だったらしく、修業のために僧侶が籠もるようになったのが平安中期ぐらいではないか、といったことまで推測できるものの確証は得られていない。
どこかにそれのわかる客観的な資料があるのではないかと探す範囲をしだいに広げ、さまざまな人に尋ね、かつての街道を辿り、あるいはいまは地形も変わっているため地質学的に古い川があったあたりを探索していた。
この日、たまたま大雨で、たまたまネコノミニコンたちがロケで蛇角山へ向かった午後、彼は来客があるので自宅で待っていた。美桜の兄たちは、それぞれ受験勉強だのなんだので学校が終わればすぐ帰宅してそれぞれの部屋に籠もっている。
美桜は授業のあと美術部で遅くなり、夕暮れ近くにバスで帰宅してきた。
雨はかなり強くなっており、傘を差してバス停から自宅まで五分ほど歩く間もどんどん濡れてしまう。そこらじゅう水浸しだ。
あたりは田んぼ。そんな中に五軒ほどの家が固まっていた。あたりは暗く、その灯りが心細げにポツンポツンと見え隠れしている。
宝家という家系は、このあたりの地域を治めていた一族の末裔で、かつては農業から林業から輸送、さらに炭、農機具、油などの商売まで手広くやっていたものの、この二百年ほどの間に家族は徐々にバラバラになって疎遠となり商売も人手に渡り、本家も小さくなって、かつての栄華を知る者はいなくなった。
もっとも彼が教師になったのも、郷土史に興味を持ったのも、こうした家にありがちな古い書物の山のおかげだった。彼が幼い頃はそうした書物が友だった。その後、その多くは町の図書館へ寄付され、その図書館の管理も宝家の者に任されることになった。彼は自由に古い文献も好きなだけ漁ることができ、その関係で同じように歴史に興味のある人たちともフェイスブックやSNSで繋がっていた。
歴史関係の客が自宅に来ることは珍しくなく、美桜もまだ客はいるだろうかと思いつつ、家の敷地に入っていった。このあたりは家を囲む塀はなく、生け垣や樹木による区切りはあるものの、五軒が一度に視野に入ってくる。
広場のようになっているところに見慣れないワゴン車が止まっていた。ああ、お客さんが来ているな、まだ帰っていないのだな、とわかる。
「ただいまー」
声を発して引き戸を開ける。そこに見慣れぬ靴がある。黒いビジネス用の靴ながらも泥だらけ。いったい車で来たというのに、どうしてそんなに汚れることがあるのだろうといぶかしく、中に入って傘を畳む。
「ただいまー」
なんの返事もないのでもう一度、声をかけた。
家の中は静まり返り、外の雨音だけが響いている。こんなに静かなこと滅多にないこと。来客があれば父の大きな声が響いているのが常。教師だったクセでしょうか、話し声がやたらに大きい。まして客がいると楽しいもので、普段以上に声が出る。
兄二人もいるはずで、彼らがテレビをつけたり、歌ったり、何事かを度鳴り合ったりしているはず。めっきり男臭くなって気持ち悪くなった兄たちの低い声が「おかえりー」と響いてきてもいいはず。
こんなに静かなのはおかしい。
誰もいないのか。だとすれば靴やワゴン車の説明がつかない。
「ねえ、誰もいないの?」
靴を脱いで上がろうとしたとき、廊下にべっとりとなにかがついていると気づく。暗くなってくると自動で付く玄関の灯りで、液体のようなものをこぼしたか、バケツをひっくり返したような、それでいて粘り気のある汚れが鈍く光る。
よくよく見ると、それは大量の血ではないのか。
美桜はぞっとして靴を脱ぐのを途中でやめ、家に入ってはいけないと思ったのか、傘も持たずにガラガラッと引き戸を開けて外へ出ようとした。隣の家に行こう。そこで事情を説明して誰かに来てもらおう。
するとドタドタドタと廊下を走ってくる音がした。
ここにいちゃ行けない、怖い。美桜は雨の降る外へ逃げ出した。
「たすけてー」
怖すぎて、声がかすれ、すぐ近くのほかの家に届くこともなく雨に吸い込まれてしまう。
早く助けを呼ぼう。誰かに知らせよう……。
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