第15話 バカヤロー!

 地面から雨の跳ね返りが強くなり、下半身がすっかりびしょ濡れになった希愛。新品のスニーカーはすでに中まで水が染み込み、靴下までも。ジーンズも雨を含み重く、肌にべったりと貼り付く。柔道を諦めてから体重は落ちたとはいえ、そもそもがっちりした体型で、なかなか合う洋服がなく、このジーンズも苦労して手に入れているので愛着もあり、これ以上汚れないことを祈るばかり。

 どれだけ自分が不快でも、怖くても、嫌でも、あそこで彼女たちが仕事をしているのだから、とにかく見守ろうと集中する。

「中に入ります?」とバスをそのままにして現場に戻るADに声を掛けられたが「いえ」と答える。マネージャーはタレントではない。歌えない、踊れない、主役ではない。でも、だからといって自分だけ雨を除けて暖かいバスの中で待つなど、考えられない。

 その時、背後にザザッと激しい音がした。

 なにかがやってくる!

「ひいっ!」

 声をあげて後ろを見ると、まぶしいライトに照らされた。

 別の車が背後からやってきたのだ。

 こんなところに、まさか誰かがやってくるとは思いもよらなかった。

「怖い」としゃがみ込みそうになる。幽霊も怖いが人間はさらに怖い。こんなところに、こんな雨の中、やってくる人間だ。

 知らせなければ。

 希愛は撮影現場へ向かって歩きはじめた。ぐちゃっと靴が鳴る。最初の一歩は重かったものの、二歩、三歩となったときにはすでに駆け出していた。

 まだADがそこにいた。

「誰か、来ました!」と彼に声をかける。

「え? なに?」

 ADが振り返るのと「すぐ下山してください!」とスピーカーを通した声が響いてきたのはほぼ同時だった。

 ゆっくりとバスの横に近づいてくるヘッドライト。その屋根には赤い回転灯が光っている。

「経験したことのない大雨が予想されています。この林道、危険です。いまのうちに下山してください! 戻れなくなりますよ」

 ディレクターが傘も差さずに走ってきて、「バカヤロー!」と度鳴っている。撮影中だったのだ。音が入ってしまう。

 するとパトカーから警官が降りてきた。すっかり雨仕様のコートを着込んでいる。

「責任者の方」と呼ぶのでディレクターは怒りを飲み込み「撮影中なんです!」とキッパリ。

「あまり時間がありません。この道、下りは雨のときはさらに危険なんで、まだ日が暮れないうちに降りないと、大変なことになりますよ」

「あの院長が余計なことを言ったんですか?」

「え?」

「院長があなたたちに?」

「違います。もちろん病院で、東京から来た人たちがトンネルへ向かったと聞いたので、こうして来たのですが」

「あと三十分で終わるので、そうしたらすぐ撤収します」とキッパリとディレクター。

「わかりました。だったら一緒に下りましょう。先に進みますのであとをついてきてください」

「ありがとうございます。では、いまは音を立てないでください。ヘッドライトを消してください。すぐ終わりますので」

 警官は引き下がり、パトカーはバックして向きを変える。赤いテールランプも、いったん消えた。

 雨音だけが激しくなる。

 もちろんこうした制作現場での「三十分」は、時計での三十分とは違うと希愛も知っている。「すぐ」も「すぐ」ではない。

 その後も撮影は続き、三十分が過ぎても終わらない。OKが出るまで終わらないのが現場なのだ。

 警官がまたやってきて「急いでくれませんか」と希愛に声をかけてくる。

「そう言われても……」

 そのとき、「キャー」と叫び声。

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