第12話 出たんですか!
本気で携帯トイレを使う気なのか、と希愛は驚きつつ、こういう場合はしょうがないのかもしれないとも思う。いまは男性はバスに残っていない。自分が前へ行きドアのところで盾になればいい。
「わかった」
これも仕事。だけどトンネルの近くには行きたくない。希愛は前に向かい、外で傘をさしてなにかをやっている男たちの存在を眺めながら、後方では携帯トイレを恥ずかしげもなく使っている女子たちの笑い声を聞いている。
「希愛さーん」と清美の声。「捨ててきてくれる?」
これがマネージャーの仕事なのか。希愛も最初はなにが仕事なのかわかっていなかった。いまは諦めもあって自然に体が先に動く。言われるがままに携帯トイレが四つ入った重いビニール袋を渡されて、外に捨てに行く。
ドアを開けると、森の空気と雨の湿気がいっきに全身を包む。思った以上に強い雨だ。ザーザーと激しい音があたりにあふれかえって、耳がふさがれてしまう。
希愛はビニール傘を差し、外に出ると地面はぬかるんで、歩くとビチャビチャと水を跳ねる。新しいスニーカーを履いてきたことを後悔しながら、どこに捨てるべきかと思案する。
そもそもここに捨てていいわけがない。希愛は二つの意味で、捨ててはいけないと感じている。清美たちがあまりにも自然に「捨てて」と言ったので持って来てしまったものの、この山の自然を汚すことはできない。それに、もしここが本当に心霊的な場所ならば、排泄物を捨てるなどもってのほかではないか。
だめだ、これは持ち帰る。希愛が決めたとき、横からさっと手がのびてビニール袋を掴み取った。
「え?」
ビニール傘を差した清美が横にいたのた。雨音で気付かなかった。
「なにぐずぐずしてるの」
清美は希愛から袋を奪うと、「えいっ」と下り斜面に向かって放り投げてしまった。
「あっ」
希愛さんの声は雨音に飲み込まれる。
そこは木々が高く伸び、鬱蒼とした藪だ。ビニール袋はその藪の中に消えていった。あとで見つけることもできそうにない。
「いいよね」と清美はタバコに火をつけて吸いはじめた。「はあー、生き返った」
その姿はアイドルというよりは、おばさん。
「希愛ちゃんも大変だね」
グループのメンバーがいるところでは「希愛さん」と呼びますが、二人きりのときは年上を強調したがる清美だ。
「あたしらみたいなの、好きじゃないでしょ」
好きとか嫌いではないのだ、と反論したいところだが、それではまるで嫌いであるかのように聞えてしまうだろう。だからといって心から好きだとも言いづらい。これまで、フィジカル的にもメンタルとしても強い人ばかり見てきた希愛から見ると、ここにいるのはあまりにも弱い子たちばかり。守ってあげたい気持ちはあるものの、肝心の彼女たちはそうした希愛の気持ちなどまったく気にも止めず、むしろ逆なでするようなことをし続けている。当初は怒りさえ感じていたものの、いまは諦めというか、少し距離を置いて赤ん坊のように扱う気持ちになっていた。
「希愛ちゃん、一直線だもんね。バーッとまっすぐ走って行く。あたしらみたいに、ぐねぐねややこしく生きているのって、理解できないかもね」
「そんなことないわよ」
私だって迷いはあるし、そんなに一直線ではない。そもそもその道を外れていまここにいるのだ、とはとても言えない。たかだかマネージャーの心のつぶやきなど、誰が聞きたいだろう。
「あたしたちって、面倒くさい生き物なんだよ。こういうのが好きで、楽しくて、やり甲斐もあって、だから続けてられるのね。理屈じゃなくて気持ちというか感情で生きてる。ちょっとばかり幸運もあるけど、大概のことは思ったほどはうまくいかない。うまくいかないけど、やるときは全力。明日のことは誰にもわからない。だから、好きとか楽しいがないなら、ここで生きるのはムリ。希愛ちゃんも、ムリしない方がいいよ」
ムリしていると思われていたのか。妙に的確に見られていたことを知って、希愛は顔が熱くなる。すぐ顔に出てしまう。このときも顔にはっきり出ている。希愛とは違う経験をさまざま積んでいる清美には、手に取るようにわかってしまうのかもしれない。
「ふふふ。希愛ちゃんて、困ると笑ったみたいな顔になるよね。それクセ?」
そんなことは言われたことがなかったので驚く。
「きっとさあ、泣きたいときや困ったときも、笑顔になれば解決するって教わったんでしょ? 笑顔は無敵だとかさ」
記憶にはない。ただ、人に涙は見せたくない。自分はいつも元気でしっかり前を向いている。そうでなければ負けてしまう。そう思ってやってきた。
「あたしたちだって、ステージとかファンの前じゃ、きっちり表情をつくるからね。なにがあってもね」
半分ほど吸ったタバコを、慣れた仕草で指で弾き飛ばします。
「あっ、だめ」
幸い、小枝にぶつかったタバコははねかえって地面に落ち、水たまりで完全に消えていった。
「あーあ、雨じゃ思い切り撮影できないよねー。もしかすると、音だってあとで追加で入れるんじゃない?」
「スタジオでの収録日程があるので、そのときに必要なら声を追加することになってると思うけど」
「オンリーか。なんか面倒くさいよね。ライブとかパーッとやってワーッと騒いで終わるのにね。フフッ」と彼女はバスに戻ろうとした。オンリーとは、あとで音声だけ入れる作業のことだ。テレビ番組ではよくあることだが、彼女たちは滅多にテレビなど出ないのに、そういう用語には敏感でいっぱしの業界人を気取っている。
その時。
希愛はバチャバチャと水をはねながら駆け寄ってくる音に気づき、そちらを見ると、ADとカメラマンが走ってくるところだった。
「ど、どうしたんです」
「うるせえ!」と彼らは希愛を突き飛ばす勢いでバスの中へ駆け込んでいく。
「なにか、出たんですか!」と思わず希愛は声をかける。
すると「大丈夫だって。大げさだよ」とディレクターの野太い声がする。
見れば、ディレクターが傘を差しながらケンケンでやってくる。音声さんが肩を貸して、ひと目見るだけで足をケガしたことがわかる。
希愛が駆け寄ると、頼りない音声さんよりもずっと頑丈に見えたのだろう。渡りに船とばかりにディレクターは希愛のがっしりした肩に手を移す。
「大げさなんだよ。ちょっとくじいたぐらいだから」
そこにいったんバスに入っていたADが飛び出してきて「動いちゃダメじゃないですか!」と度鳴る。手には救急箱。
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