第11話 立入禁止

「これは!」とすくっと立ち上がった細野屋。

 希愛は自分が一番動けると判断し、前へ進んでステップにうずくまっているディレクターに「大丈夫ですか?」と声を掛けながら手を差し伸べる。左手でしっかりとバーに掴まっている。

「ああ、すみません、なんか、ドジ踏んじゃって。ハハハハ」と情けない声を出すディレクター。しかし、耳のあたりから血が流れ、激しくぶつかったことを伺わせる。こんなところでいきなり血の臭いが漂ってくる。

「動かないで」と希愛は一転して、彼を引き上げる姿勢をやめてうずくまり、頭部を確認した。柔道経験を活かし、いずれ柔道整復師の道もと考えていたこともあり、救急時の対応をよく勉強していた。

「強く打ったなら、動かないで」

 ボランティア活動もしており、知識だけではなく実地の経験もあった。

「病院に行きましょう」とADに訴える。

「えー、もうそこなんですけど」と車はゆっくり速度を落としていく。

「救急車を呼びましょう」

「大丈夫だって」とディレクターは自分で起き上がろうとする。

 一瞬、希愛は彼の瞳が左右で大きさがまるで違うと感じたが、はっきり見たわけではなかった。気のせいかもしれない。側頭部の出血は止まっていた。陥没はしていない。シロウトではここまで。一刻も早く救急隊員か医師にバトンタッチしなければ。

「吐き気はありませんか? 頭痛は?」

「ちょっとぶつけただけですから。心配しないで。ほら、どうせあとでさっきの病院に行きますから」

 それはこの現場を仕切る者として、この仕事をやり遂げたいと強く願っていたからのことだろう。ディレクターは自分のポケットからハンカチを出して耳のあたりにあてて、「いやあ、びっくりしゃった」と笑っている。「すいませーん、ご心配には及びません。大丈夫ですから」

 そのハンカチに血の赤いシミが広がっていく。止まったように見えても、まだわずかに出血しているのではないか。

 希愛が前方を見ると、そこに真っ黒な闇があった。闇にもいろいろな種類がある。夜によって生まれる闇、深い森の中でふと出くわす闇。都会の隙間に生じる闇。建物の中に存在している闇。希愛は、目の前の闇は、そのどれとも似ていないと感じた。

 なにもない空っぽの空間に生じる闇というよりは、見えないなにかがぎっちり詰まっている重い闇に見えた。

 それがトンネルの入り口だった。黒と黄色の縞模様に塗装された鉄の柵でしっかり閉ざされている。

「立入禁止」と黄色地に黒く文字の浮かぶ看板。そこにはイタズラ書きがいくつかあり、錆びも浮いて十年単位の時間を物語る。それが激しい雨と風に打たれて、揺れている。

 背後の重たい闇に比較して、あまりにも軽いバリケードだ。

 写真で見たよりもトンネルは小さい。そして「ああ、これが不気味というものなのか」と改めて希愛は納得した。実際に目の当たりにすると、気味悪さは予想の何百倍も強かった。近寄りがたさというよりも、圧を感じる。闇からなにかが飛び出してくるような気配がある。

 トンネルの入り口は古いレンガでアーチが描かれている。それが雨に濡れてどす黒く、いまにも崩れそうにも見える。それでいて極めて堅牢にも見える。

 そのとき、希愛の肩にふいに手が。

「ひー!」

「どいてください」

 カメラマンの手だ。希愛の四角い体が邪魔だった。

「ちょっと見て回りますから」

 撮影できるのか、どう撮影するのか。ディレクターたちはドアを開けて傘を手にして雨の中へ出て行く。

 希愛が後部のメンバーたちの方へ戻ろうとしたとき、また肩に手が……。

「ひいいい!」

 振り返ると、そこに細野屋籐七朗が立っていた。

 細野屋は思った以上に背が高く、資料では六十ぐらいの年齢ながらも実際にはもっと老けて見える。痩せてこけている上に、午後となってヒゲがまばらに生えて浅黒い顔にさらに暗さが加わっている。黒に白い毛や茶色い毛も混じったヒゲは、伸ばせばさらに老成したように見えただろう。

「な、なんですか」と希愛ははからずも語尾が震えた。

「あなたは大丈夫だから」

「え? なんですか。なんのこと?」

「ハハハ」と細野屋は笑うと、自分の荷物の中から電気シェーバーを取りだし、ヒゲを剃る。線香のような香りが漂ってくる。そして「よし」と満足すると、シェーバーを丁寧にバッグにしまい込み、彼もまたスタッフの用意しているビニール傘を持って外へ出て行く。

 あなたは大丈夫だから? なんだ、なにが大丈夫なのだ、と希愛はからかわれたことに怒りさえ覚えながら自分の座席に戻った。

「トイレ、行きたいなあ」と日奈子のあどけない口調。

「ないんです。我慢して」

「できるよー。その辺でちょっとすればいいよね」

 頭の中が男子。日奈子のがさつさに希愛は苛立つ。母親なら「女の子でしょ」と叱る場面だ。それともいまの母親たちは、そんな躾けはしないのだろうか。

「ちょっとだけ、我慢して」

 すると清美が「携帯トイレあるよ、使う?」と持ちかけ、日奈子は「うん、ありがとう」と素直にそれを受け取るのである。


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