第10話 雨のトンネル
「そうですか? オーラですかね。霊能者さんですからね」
呑気なディレクターの言葉に思わず、そうじゃない、と希愛は言いたくなるが聞えてはマズイので言葉を呑む。
「みなさん、あんな感じですよ」と彼。霊能者ならではの雰囲気に過ぎない。いや霊能者を悪く言うわけではないが、雰囲気あっての霊能者だ、と。
「細野屋さんは、名前はそれほど知られていませんが、お弟子さんはけっこう活躍されている人が多くて、今回、直々に登場していただけるんでホントに楽しみにしているんです。こういう企画は二十年ぶりらしいです」
そういえば、打ち合わせでもそんなことを言っていたな、と希愛は思うものの、聞いていた感じと今日はじめて会っての感じに大きな隔たりがあり、それが気になって仕方が無い。
柔道の試合のとき、対戦相手が別人のように変化していることがあり、気を呑まれると言うのだろうか、こちらに一瞬の恐れが生じることがある。それに捕らわれると負けてしまうので、自分を一喝して、まさに気合を入れて集中することになる。そのとき希愛は「相手も人間」と自分に言い聞かせるのが常だった。幼い頃に祖父から教わった言葉であった。
「いいかい、相手がどんなに強そうでも、しょせんは人間だ。人の子だ。骨と肉があって赤い血が流れている。希愛と同じ人間なんだからね」
ですが、今日、細野屋籐七朗と出会ったとき、同じ人間にはとても思えなかったのだ。霊能者の雰囲気というよりも、死者の雰囲気そのものを希愛は感じてしまった。この世のものではないものを身にまとっているのではないか。そもそも、籐七朗の血は赤いのか? 本当にこの世のものなのか?
そのなんとも言えない気持ちの悪さ。石をひっくり返したら不気味な虫たちがびっしりと
心霊、怪奇といっても番組としての作り物である以上、怖がる必要はないと、打ち合わせなどを経てビジネスとして扱う気持ちでいた希愛だったが、一瞬にしてここに居合わせたことを後悔していた。
ああ、来るんじゃなかった。この仕事を請けるんじゃなかった。東京に来るんじゃなかった、マネージャーなんかになるんじゃなかった……。
途中でやってきたいつも通りのイベントや営業はそれなりに平凡でつつがなく、これといったこともないもので退屈でさえあったのだが、いま思えばそれがどれほど楽しい現場だったのかと思い出されてならない。半地下の子たちは、幼さとしたたかさと底意地の悪さを兼ね備えているものの、イベントに全力で向かう姿だけは、希愛も応援したくなるし楽しい時間だった。
ここはまるで違う……。
もしいまも地元でトレーナーの道を目指していたとすれば、仕事にするために苦労も多かったかもしれないが、こんな気分の悪い目に遭うこともなかったのではないか。別の苦労はいくらでもしてもいい。いまここにある気持ち悪さがなければ、それでいい。
そもそも腰を痛めなければ……。腰を痛めたのは最初に膝を痛めたからで、だったら膝を痛めなければ……。いや柔道をやらなければ……。悪い予感のあるときは思い切って試合や稽古に出なければよかったのに、それが出来なかった。それもひとつの弱さかもしれない。
帰りたい……。
どんどんどんどん、暗い気持ちになっていくのが自分でもわかる。いわゆるマイナス思考。そこに陥ってはいけないんだ、と柔道をやっている頃も気をつけていたが、珍しくずるずると暗闇に引き込まれていく。
道は細く険しく、速度はなかなか上がらない。雨もときどきバラバラと大粒になり、時間としてはまだ太陽が昇っているはずなのにさほど明るくもならない。
「酷い道ですねえ。昨日、ロケハンに来たときには、こんなだと思わなかったな」と運転をしているAD。
「昨日は院長の四駆を借りたからだ」とディレクターは呟きます。「あれ、ベンツだよな」
「AMG Gクラスってやつ。オフロードの超高級車だもの。それとこれを比べちゃね」
ひとしきり高級車の話が盛り上がるのだが、下手をすると思わぬバウンドで舌を噛みかねない。
「昨日は大丈夫だったんですね?」と希愛は少しホッとする。
「ええ。基本的な絵は押さえておきました。雨もこれほどじゃなかったんで。あとは彼女たちと先生のシーンだけなんです。日が暮れる前にパパッと撮影して帰りましょう」
帰るためにも、とにかくトンネルに辿り着かなければならない。道はさらに細く急峻になっていく。時折、タイヤは空転し、あるいはズルッと気持ち悪く滑る。そのたびに停止しそうなほど速度は落ち、運転は慎重さを増す。
「おかしいな。まだ着かない」とAD。「とっくに着いてもいい時間ですよね」
「確かにな」とディレクターは心配になったのか、揺れるバスの中を運転席の近くの席へと移動していく。
「ね、大丈夫なの?」と清美。
「ん?」
「時間、押してるよね」
自分たちの遅れで変更になったスケジュールであるのも忘れて文句を言う。すでに現地に着いて撮影準備がはじまっているはずの時間を過ぎてしまった。遅くとも夕方までに終えて帰れば、天気予報の告げているもっとも荒れる時間帯は避けられる計算だったのだが、それも危うい。
「撮影開始になったら、すぐ動けるようにしておいてください」と希愛はメンバーたちに確認する。
するとこれまで遠足気分で楽しげだった彼女たちの中を、妙な緊張感が走る。
「どうしたの?」
「だって、マネージャー」
「え?」
清美がニッコリと営業用の笑みをつくる。
「希愛さん、怖い顔しているよ」
「あっ」
自分が一番、怖がっていたのだと気づき、「ごめんごめん」と言うとようやくメンバーから笑いが漏れた。
「そもそもがおっかない顔なのにね」と誰かが呟く。ミニ・メスゴリラ……。
いつもなら「なんですって!」とおどけてみせる希愛も、この時はその余裕もない。むしろ冷や汗が出る。「ごめんね」と言うのが精一杯だった。
それがメンバーにも伝わる。今回はなにかおかしいぞ、と。このまま無事に撮影できるのか。この仕事、ちゃんとやり切ることができるのか。全員が不安になってしまう。
「着きました!」と突然、前方でディレクターが大声を出した。揺れるバスの中で彼は立ち上がった。
「押しています。テキパキ撮影しますので、よろしくお願いいたします。ネコノミニコンさんたちのシーンから撮ります。終わったらバスで待機をお願いします。巫女姿での車中シーンはあとで撮りましょう。私服シーンからいきます。そのあと、細野屋先生をまじえたシーン。それが終われば、カメラだけで周辺を撮影して終わります。この雨なので、予定していたシーンのうち、いくつか撮れませんが問題ないとお思います」
いよいよ始まる。別の緊張がバスの中に漂う中で、女子たちはみな化粧直しに突入し忙しくなっていく。華やいだ香りが暗いバスの中を満たしていく。当初、いつもの巫女姿でバスの中で会話するシーンがあったのを、そこはあとでも撮れるからと後回しになり、私服のままでトンネルでのシーンから撮影が先となった。
「あっ!」
そのとき、前方で声がし、ディレクターの体が吹っ飛んでフロントガラスにドーンと大きな音を立ててぶつかり、ステップに落ちていった。
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