第157話 百花の王 ⑤
「雫石!」
声と共に現れた手が、男の手を掴む。
視界に、太陽のような明るい色が見えた。
「何をしているんですか!」
海のような碧い瞳は、今まで見たこともないような怒りに染まっていた。
男の赤い目が晴を認識すると、逆上したように顔も赤くなる。
「邪魔をするな!」
男は拳を握り締めて振りかぶると、そのまま晴を殴った。
「晴くん!」
恐怖で詰まっていた喉から、その言葉だけがやっと出た。
頬を殴られても、晴は男の腕を離さなかった。
しかし口の中が切れたのか、血が出ている。
「…どんな感情があっても、暴力はよくありません」
碧い瞳に冷たい色をさすと、晴は拳を握りしめて男の顔面を思いっきり殴った。
鼻を殴られた男は、痛みで呻く。
その隙に、両手が自由になった雫石は思いっきり男の股を蹴飛ばした。
「…っ…!」
男は言葉もなくその場に崩れ落ち、口から泡を吹いて気絶している。
晴は、倒れている雫石を助け起こした。
「雫石、大丈夫?」
「晴くんこそ、大丈夫?ごめんなさい、私…」
晴の頬は赤く腫れ、口から血が流れている。
おろおろと慌てる雫石に、晴はいつものように優しく微笑みかける。
「おれは大丈夫だよ」
そのあたたかい笑みに、雫石はぽろぽろと涙をこぼした。
「な、何かされたの?いや、言いづらいことだったら純とかに…えっと、怪我はない?」
雫石の涙を見て慌てている晴に、雫石はただ頷く。
ひとまず怪我はないと聞いて、晴は深く息を吐く。
「雫石が無事でよかったよ」
雫石は、子供のようにぽろぽろと泣いている。
晴はその涙を、優しく拭った。
「…話し合いで、何とかできないかと思ったの」
「うん」
晴は優しく頷く。
「それでもだめだったから、唐辛子のスプレーを使ったの」
「うん」
「その間に、逃げようと思ったのだけれど…立てなく、なってしまって…っ…」
しゃっくりを上げる雫石に、晴は背中を優しく撫でる。
「もう大丈夫だよ」
「わ、私…何も、できないんだわ…」
どれだけ準備をしても、結局は力には敵わない。
雫石の力では、男の人には勝てない。
「やっぱり、だめ、なのかしら…」
泣きながら落ち込む雫石に、晴は前から思っていたことを伝える。
「雫石は、どんな風に強くなりたいの?」
「自分の身くらいは、守れるようになりたいわ」
「それって、結構難しいことだと思うよ」
「…そうなの?」
ポカンと呆ける雫石に、晴は少し苦笑いを浮かべる。
「純と翔平みたいに自分の身を自分で守れる人は、少ないんだよ」
「そう…なのかしら」
雫石は困惑している。
『昔から純と翔平が側にいれば、基準もおかしくなるよね…』
あの2人は晴の目から見ても、明らかに規格外だ。
自分の身も守れるし、大の男が何十人いても圧倒できる。
身体能力から実践の経験まで、護衛以上に強いのはあの2人くらいである。
しかし雫石はあの2人にずっと守られてきたこともあり、自分で考える基準が高くなってしまっていたのだ。
「自分の身を自分で守りたいっていう気持ちは、間違ってないと思うよ。でも自分を守るために、人の力を借りることもだめじゃないと思うんだ」
雫石が純の力を借りたくないという気持ちは、少し分かる。
ずっと友人でいたいからこそ、対等な関係でいたいのだ。
「皐月と凪月の防犯グッズだって、2人の力でしょ?」
「…えぇ。そうね」
雫石は少し落ち着いてきたのか、ゆっくりと頷く。
今回も、2人の防犯グッズがなければ立ち向かえなかった。
「人の力を借りることは悪いことじゃないよ」
人は、1人では生きていけない。
どこかで必ず、誰かの力を借りて生きている。
お互いを助け合いながら、生きていくのだ。
「雫石は、海外に行きたいんだよね?」
雫石は頷く。
「どこに行っても大切なのは、いろんな方法を持っておくことだと思う」
護衛を雇うことや、護身術を学ぶこと。
防犯グッズを持つこともそうだし、もしもの時のために方法は多いに越したことはない。
「本当は、女の人にそうさせる人たちが悪いんだけどね」
少し驚いたように、雫石は視線を上げる。
涙で濡れた黒い瞳が、とても綺麗だなと思った。
「力の弱い人を力づくでどうにかしようとする人がいなくなれば、みんな安心して暮らせるのにね」
しかし、それは難しい。
だから力の弱い人は、自分の身を自分で守ろうとする。
「…そんなことを言われたのは、初めてだわ」
実力主義の静華学園で生きてきた雫石にとっては、自分で何とかできなければそれは弱者だ。
弱い者は強い者によって淘汰される。
それが当たり前だった。
「…男の人は、どうして力づくでどうにかしようとするのかしら」
「説得力はないかもしれないけど、そんな人ばかりじゃないよ」
今さっきひどい目にあったばかりなので、説得力は乏しい。
「えぇ。分かっているわ」
優しい人もいることは分かっている。
それでも今までの経験が、雫石の思考を傾けさせる。
自分の思い通りにしようとする人。
力づくで押さえつけようとする人。
思い通りにならなければ、逆上する人。
雫石に想いを寄せてくる人は、こんな人ばかりだった。
『そんな人ばかりじゃないというのは、頭では分かっているのだけれど…』
手紙で想いを伝えてくれる人もいた。
顔を真っ赤にさせながら、告白してくれる人もいた。
それでも、そんな人たちもいつかは「男」というものを出してくるのではないかと思った。
それが、恐ろしかった。
「おれが、証明するよ」
「?」
晴を見ると、綺麗な碧い瞳が優しく笑っていた。
「何を?」
「雫石に想いを寄せる人にも、優しい人はいるってことを」
「……え?」
困惑して固まっている雫石に、晴は王子様のような笑みで微笑みかける。
「おれ、雫石のことが好きみたい」
「!」
驚いて少し後ずさった雫石との距離を詰めず、晴は微笑む。
「こんな時に、ごめんね」
混乱して頭の中がぐるぐると回っている雫石と対照的に、晴はのほほんとしている。
「あの、私を気遣ってくれているのなら、そんな無理は…」
「こんなことで、嘘はつかないよ」
「でも…そんなようには見えなかったわ」
「うん。おれも今気付いたから」
「………」
さすがに何も言えなくなっている雫石に、晴は少し申し訳なさを感じる。
しかし、これが一番よい方法だと思ったのだ。
「おれは、雫石のこと好きだよ。でも、おれは雫石を怖がらせないと誓うよ」
「…私は晴くんのこと、友人としか思えないわ」
「それでいいよ」
「私、恋人をつくるつもりもないの」
「分かった」
にっこりと頷く晴に、本当に分かっているのかと心配になる。
「おれにとって今一番大切なのは、雫石のことが好きな人にも優しい人はいるって知ってもらうことだから」
今すぐに、恋人になってほしいというわけではない。
ただ、恐ろしい思いはもうしてほしくない。
雫石はしばらく困惑していたようだが、いったん考えることを諦めたようだった。
涙の跡を拭うと、自分の足で立ち上がる。
「…助けてくれて、ありがとう」
「雫石が無事でよかったよ」
何もなかったかのように話が元に戻り、晴は少しおかしくて笑みが出る。
「この人はどうする?」
晴もいつも通りに話を戻すと、雫石は少しほっとしたようだった。
「やり取りはボイスレコーダーに録音しているから、それを警察に提出するわ」
「それなら、おれのも正当防衛に入るかな」
晴は、少し血が滲んでいる右手を見る。
人を殴ったのは初めてだったが、後悔はしていない。
ただ、あまり好きではないと思った。
「最初に晴くんが殴られたのは、そこのカメラに映っているわ」
雫石が指さして初めて、晴はカメラの存在に気付いた。
「こんなところに、カメラなんてあった?」
「私が用意したの」
驚く晴に、雫石は少し肩をすくめる。
「女性への暴行被害に泣き寝入りが多いのは、証拠が不十分だからという理由も多いわ。だから、証拠は多い方が良いと思ったの」
だからと言って、自分が襲われるかもしれないのにカメラを設置できる人は少ないだろう。
しかし確かにこれだけの証拠があれば、罪に問える。
「さすが、雫石だね」
自分のことを何もできないと泣いていたが、そんなことはない。
「雫石には、雫石の強さがあるよ」
その言葉は、今の雫石にとって嬉しいものだった。
「…ありがとう」
嬉しくて、少しまた涙が出た。
純は小さくため息をつくと、木の上から降りた。
「よく、最後まで助けなかったな」
同じように木に登っていた翔平も、隣に降りてくる。
雫石が男に腕を掴まれた時点で、翔平は一度駆け付けようとした。
しかし、純が止めたのだ。
『晴が来ていたことに気付いてたとしても、今までの純なら迷わず助けに行っていた』
晴は、腕っぷしは強くない。
実際に顔を殴られてしまっていたし、2人がかりでもギリギリだった。
「お前が優希を守るのは、何か理由があるのか?」
「だったら何?」
否定をしないということは、そうなのだろう。
『優希の考えは当たっていたな』
こういう時に、雫石の頭の良さを感じる。
わずかな可能性から推測を立てて、頭の回転の良さと機転で事実にたどり着く。
学力だけでは測れない、雫石の頭の良さがそこにある。
「優希は、それでも構わないらしい」
純が自分を守ることに目的があったとしても、友人になることに目的があったとしても。
雫石は、それでも純のことは大切な友人だと言っていた。
純は何も言わずに、近くの木に飛び乗るとそのまま去っていった。
『優希は、変わろうとしてる』
将来を見据え、自ら変化を望んだ。
失敗を恐れず、恐怖に立ち向かっていった。
これから咲くことを恐れない、つぼみに相応しい姿だと思った。
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