第156話 百花の王 ④
『また、授業を休んでしまったわ』
鐘の音を聞きながら、雫石は心の中でため息をついた。
短期間のうちに二度も私情で休むなど、今までの自分だったら考えられない。
雫石は純のように天才ではないので、休んだ分は勉強しなければいけない。
「早く授業に戻りたいので、私の私物を返していただけますか?」
雫石が話しかけると、男は少し驚いたように振り返った。
そして雫石の姿を目に留めると、笑みを浮かべる。
「何故、私が持っていると?」
「あなたが盗んだ腕時計には、発信機を付けていたからです」
雫石は昔から、あまり私物を学園に持ってこないようにしている。
好意を寄せてくる人の中には、雫石の私物を盗もうとする人間がいるからだ。
ペンや消しゴムくらいなら、盗まれても気にしないことにしている。
しかし腕時計は、さすがに見逃せない。
「あの手紙も、あなたですか?」
「よく分かりましたね」
嬉しそうにしている男に、雫石は淡々と話を続ける。
「机の中に手紙を入れられるのは、クラスメイトか学園の職員の方ですから」
雫石が手紙を取り出した時、クラスメイトの中に変わった様子はなかった。
クラスメイト以外で生徒の机に近付けるのは、教師などの学園の職員である。
しかし廊下で嫌な視線を感じた時、その場に教師はいなかった。
「清掃員の方であれば、私の机に近付いても不審に思われません」
モップを片手に立っている男に、雫石は冷たい視線を向ける。
清掃員であれば、学園の中にいても生徒たちは気にしない。
学園の清掃員は数が多いが、ある程度は絞り込めることができた。
雫石のクラスの清掃を受け持っている清掃員を調べ、その中から吉川より年下の人物を探した。
あの手紙で「あんなに年上の男がいいのか」と言っていたから、吉川よりは年下だろうと思ったのだ。
そして目星をつけた清掃員の勤務日を調べ、机の上にわざと腕時計を置き忘れた。
「生徒の私物を盗むのは、犯罪です。腕時計は返してください」
男はポケットから腕時計を取り出すと、ニヤニヤと笑う。
「私にとってほしくて、置いてあったんじゃないのか?」
「違います」
『そうだけれど』
その通りなのだが、自意識過剰もいいところである。
「私のことが好きだから、こうやってついて来たのだろう?」
「腕時計を返してもらうためです」
「手紙も、貰って嬉しかっただろう?」
「嬉しくありません」
「いつも、私に微笑みかけてくれたじゃないか」
「そんなつもりはありません」
「恥ずかしがらないでいいよ」
「恥ずかしがっていません」
雫石は少し困惑した。
人と喋っていて、こんなにも話が通じないのは初めてである。
『今までも、こんな人たちだったのかしら』
今までは腕を掴まれそうになったあたりで純か翔平が相手を止めてくれていたので、ここまで会話が続いているのは初めてに近い。
『腕時計が盗まれたのは事実だし、手紙のことも認めたわ。証拠としては十分ね』
これらのやり取りは、全てボイスレコーダーで録音している。
つぼみとして学園に届けてもいいし、すぐに警察に届けてもいい。
これ以上の会話は必要ないと考え、雫石はその男に背を向けた。
すぐにその場を離れようとした時、後ろからぐっと腕を掴まれて足が止まった。
「…離してください」
腕を引いても、びくともしない。
自分の腕を掴んでいる大きな手に、ぞくりと恐怖が走る。
「離してください」
「あの手紙を見たんだろう?そして私のところに来たということは、私のことが好きなんだろう」
「違います」
雫石は自分を襲う恐怖から逃げないように、男を真っすぐに見つめ返した。
「私は、あなたの気持ちには応えられません」
「今は、ということか?それなら…」
「これからも、あなたのことを好きになることはありません」
はっきりと言い切る雫石に、男の顔から笑みが消える。
「…私はこんなにも好きなのに?」
「その気持ちには応えられません」
「どうして。何故?そんなのは違う」
何が違うのかは分からないが、雫石としては早く手を離してほしい。
「手を離してください。暴行罪で訴えます」
「私の手から逃れられないのに、どうやって訴えるんだ?」
にやりと笑う男に、嫌悪感が芽生える。
それが表情に出ていたのか分からないが、雫石の腕を掴む手に力が増す。
「これだけ…私が愛していると言っているのに!」
そのまま両肩を掴まれた雫石は、ずっと手に持っていたスプレーを男の顔にかける。
「ぎゃっ」
短い悲鳴を上げた男は、顔を覆いながら倒れた。
雫石は男から後ずさりながら、深く息を吐く。
『正当防衛よね…』
男にかけたスプレーは、唐辛子入りのスプレーだ。
目に入ったようなので、かなり痛いだろう。
男に掴まれていた腕が、じくじくと痛む。
『早く、警備員に…』
一歩踏み出した時、足に力が入らなくてへなりと座り込んでしまった。
どうやら恐怖と安堵から、足から力が抜けてしまったらしい。
「情けないわ…」
自分の情けなさに、少し涙が出てくる。
純の力は借りないと言っておきながら、いざ1人で立ち向かうと恐怖でしかなかった。
自分が頼りなくて、今までどれだけ純の存在が大きかったのかを知った。
守られているだけの自分は、幸せだったのだ。
『それでも…』
「!」
ふと人影が差すと、体に大きな衝撃を感じて雫石は床に倒れた。
両腕を掴まれ、雫石の体の上に男が覆いかぶさっている。
「…ずいぶん、ひどいことをしてくれるな」
涙で滲む赤い目は、雫石を睨みつけている。
『数分は、目が見えないはずなのに…』
雫石は恐怖で身がすくみながら、頭を必死に回転させる。
腕を掴まれていて、他の防犯グッズを出すことができない。
『こういう時は、どうすれば…』
純に護身術を教えてもらったこともあったのに、いざとなると何も頭に浮かばない。
ただ何もできない無力感と、これからどうなるのか分からない恐怖感で頭がいっぱいになる。
男の手が雫石の胸元に伸びた時、雫石は目から涙がこぼれ落ちるのを感じた。
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