プチ・がんじがらめ

栗山 丈

プチ・がんじがらめ

 歩く速度が誰よりも遅い私は、道を歩いていてもたいがいの人にどんどん抜かれていく。


けれども、周りを気にすることはなく、至って自分のペースを固持している。


早く歩こうと思えば歩けるが、普通に自分の心地よい歩調というものがあって、どんなに急いでいても、ペースを速めるようなことはしない。


暑い日には急ぐと汗は掻くし、電車の時間に間に合わない理由で、小走りで快調に飛ばしても、心臓の鼓動が高まってハァハァいうだけである。


何せ人一倍の汗かきで、焦るだけでも後から後から汗が吹き出し始める。焦るのは無駄だ。


だから道を歩く時には周囲をよく観察しながら味わって歩くのだ。


何と言っても、そこから遭遇する自分の未知の世界を知ることができる。


ある五月の心地よい朝、散歩をしていると、見知らぬ赤紫の花がたわわに垂れて咲き誇る草原があった。


あとからネットで検索してみると、それはホタルブクロという山野草であった。


動植物には疎いのであるが、美しいものを発見することは楽しいものである。


 追い越す人、追い越す人が通勤人であろうと思われるが、その都度、後ろを振り向いて、私の顔を覗いていく。


〝何をのんびり歩いているのだ、チンタラしてんじゃないよ〟とでも言いたそうなのがよくわかる。


いつものように早朝の時間に駅まで歩いていると、やっぱり追い越す人間はこちらを睨むように振り返っていく。


(おいおい、何故だ、何故わたしをそんなに見る? わたしの顔に何かついてでもいるのか? それとも―、あーっ?・・・・・・)


 どうも何だか口の周りがスースーするなと思ったら、マスクをしていないじゃないか。


今のこの世の中、風邪をひいていなくても、社会で人の往来が激しい折り、インフルエンザやら伝染病に感染しやすい状況で、今やマスクの着用は社会常識となっている。


焦りから冷や汗が出てくる。社会のルールは守ろうと努めていただけに、し忘れていたのは不覚だった。


(やっバ—)


 余計に噴き出す汗をハンドタオルで拭き拭き、踵を返して自宅へ。


誰もがマスクをして出かけなければならない世間の風潮って何なのかと思いながら、汗が引くのを待つ。


焦っても仕方ないので、かばんから文庫本を一冊取り出してパラパラとめくり、読みかけのところから目を通し始める。


そう、私は歩いていても本を読んでいる。


但し、人通りの少ない通りでの話。


大きな通りでは通行に支障をきたすことがあるのでやめている。


目の前に人や危険が迫るとすぐに正面を向いて対処できる感覚は持ちあわせているので、車が近づけば耳でいち早く察知して端へ寄っている。


人が正面に迫りくれば、ひょいと横にずれてよける。


でも、決してまねをしないでいただきたい。


後天的に意識と経験で培った独自の習慣である。


この前は、高齢の老人のおひとりが、火山が噴火するかのごとく興奮して私に訴えかけてきた。


「あぶないよ、道で本なんか読んじゃ。歩きながら本は読んじゃいかんなぁ。今、穏やかに言っているけど、なんか段々腹立ってきた。だいたいすれ違う通行人に迷惑だろ? 常識をわきまえろよ。車に轢かれて死ぬのは自業自得だからいいけどよ。本なんか神経、集中させてないと読めるもんじゃないよ。家で読め、そんなもん」


「すみません。危なくないように周りにいつも気を付けていましたが、申し訳ありません」


(—ああ、また言われちゃった。今回は強烈だったなぁ―)


 はたから見ると確かに危ないんだろうなとは思うが、でもこれがやめられないのだ。


だからせめて車と人の往来が激しい道でするのは従来通りやめにする。


でも、社会の常識が本当に常識と言えるものなのかと思ってしまう反骨精神は常にあって、オカシイことはオカシイと感じてしまうのだが、これは自分の範疇で気を付ければいいと思っていた。


人に左右されずに生きてきたが、この行動だけは直るものではない。


 固定観念を崩して今までと違う世界に進むために、前に立ちはだかる壁を打ち壊したいという信念はいつも持ち続けている。


異端児のように人とは違うことをして、奇想天外な自分の世界をつくることを美徳としている。


組織やルールに縛られたくない感覚は並大抵のものではなく、そこにはストレスが溜まる一方である。


自分が今まで積み重ねてきた努力は一滴でも無駄にしたくなく、ひとつの事で凌駕したいと思ったら、図書館で本を借りるなり、本屋で本を購入して百冊は読んで勉強せねばなるまいと、これは大半の人と同じように思っている。


好きなことになると知識量、感覚はさらに研ぎ澄まされ、質の向上を図っていきたくなる。


雨の日には野鳥がまったく鳴かないように、環境になじめないことには首を突っ込むより、距離を置くのがよいと考えてしまう。


人間は人造の物に囲まれて生きるより、自然に囲まれて生きるほうが心身によいに決まっている。


なるべくストレスの溜まらない自然に自然のままでいたいというのが私の考えである。


朝早く家を出て、好きなように歩いて、最寄駅から電車に揺られて四五分。


仕事はごく普通の不動産会社の経理に長年携わっていて、主に賃貸不動産の管理をしている。


業務上、日々数百通の公共料金の請求書を債務者に発行して、賃借人から月々の振込の確認をするのが私の任務。


朝から机に座りっぱなしで、ひたすら手作業で請求書の発行、封入、発送が続くが、単純作業であるだけに私にとっては相当の忍耐がいる仕事になる。


さすがに単調なので、昼の1時間は10分でおにぎりをほおばり、そのあとは街なかに出て散歩をするのだ。


仕事で座りっぱなしというのはとにかくよろしくない。


座り疲れというやつで、できれば30分から1時間くらいで一度立ち上がって、トイレに行ったりお茶を入れたりして、気の利いたところでは軽いストレッチタイムを取り入れている。


人間は立っている自然の状態でいることも大事なのである。


午後は郵便局の窓口に請求書を持参して発送を完結させる。


そのあとは銀行に振り込まれた金額を一件、一件確認しなければならない。


督促をすることもあって、これを毎日19時までひたすらこなす。


これが平日の私の動きであり、特に厳格に法律などに縛られているというわけではないのであるが、単調であるから自由人的な発想で何か楽しいことを見つけていかないと潰れてしまいそうになってしまう。


 所帯を持っているわけではないので、それだけが救いである。


「仕事から解放されれば、あとは何をしても自由だからいいじゃん」


 こんな声が聞こえてきそうだが、自由な時間が意外と取れないものなのだ。


出会いなんか求めていないのに、SNSでは独身女性がLINE友達を少しでもかき集めようと活発に呼びかけてくるので、ほっておいてほしいと思いが募る。


勝手に出かけようとすると、同居の母親の重い一言が発せられる。


「おーい、どこへ行く?」


(いいじゃねぇか。一人にさせろって)


 こう思いながら口にはせずに、黙って出ていこうとする。


「ご飯はどうすんだよ。いる、いらねぇを白黒はっきりしてもらおうか」


「いいよ—」


「いいよって? 『食べてもいいよ』と『いらないよ』のどっちにもとれる。今の抑揚じゃ、どっちとも判断がつかねえな。言葉の使い方に気をつけなよ。どっちなのよ、えっ?」


 半分、身体が玄関の扉から出かかっているが、グッと踏みとどまって呼びかけに答える。


「外食してくるよ、独りで考えたいことがあるからよ」


 母親もいい歳なので、息子を自由にほったらかしにしておくよりも、本当は縋る気持ちのほうが強いと見える。


顔を見ると、そのことが少し表情ににじみ出ているのがわかる。


あと、親の飼っている猫がいて、嫌いではないけれど独りで机での作業中でも食事中でもお構いなしに絡みついてきて、やりたいことができないことがある。


だから独りで散歩をしつつ、その帰りにどこかでお茶しながらやることにしていて、その時間が一番のホッとできる至福の時なのだ。


 見えないもので縛られているような気がしてならない。


いや、別にロープで縛られて何も自由の利かない身体のように、身動きが取れない状態というわけではない。


私の身の周りに置かれた環境など、普通の人であれば何でもないのかもしれないのだが、小さなことに拘束されてまとわりつかれている憂鬱感が潜在意識の中に擦りこまれてしまっている。


友人からは〝病気だな〟と言われてしまっている。


いつも煩わしさから逃避したい気持ちだけが、なんとか私を擁護してくれている感じ。


どうしたら解決の方法を導き出せるのか? 


歩いているときそれをいつも考えているのだ。


何もかも放り出すことはすぐにできるのであるが、世捨人のように人生を放棄するのは一定の社会に関ってきている以上、無責任と言わねばなるまいし、私の本心がそれを許さない。


じっと考えて思案に思案を重ねた挙句、これからのことが頭に思いつく。


(そう、宇宙にすべてを委ねてしまえ)


 別にスピリチュアルの世界に浸ろうというのではない。


人間界で助けてくれる人は誰もいないなんて言っているわけではなくて、自分で生活スタイルを何とかしようと、自己責任で生きねばならないと言っているだけだ。


自分のことを好きになって、自分の行いを素直に受け入れること。


何もせずに眼を閉じてひたすら祈りを捧げる私。


神様に頼ることはしてはいけないわけではないと思うが、特に神社は願掛けに行くのではなく、神様に感謝を伝えるところである。


神の啓示が受けられれば、それはそれで良いことだとは思うが、私は祈ることで御礼を申し上げる。


(〇〇に住む△△です。この度は・・・・・・)


 神様も多くの人間をお相手になさるので、大体の住所を言って差し上げることが必要だと聞いている。


 少しギュウギュウしている電車に乗って買い物に行く。


車内は空気がこもってしまうような気がしてしかたがない。


どんなに窓から遠くても、窓を少し開けておかないと気が済まない。


もし、雨の日だったらどうするか。


そう、もちろん換気のほうが大事である。


周囲の人間と意見が食い違おうが、文句を言われようが、動じはしない。


私の近辺にある窓は5センチくらいは必ず開ける。


雨が車内に入り込んでも、息苦しくなるよりは入り込んだ雨で濡れたほうがまだましだ。


車内の利用客に愛想つかれてしまったりして何とも申し訳ないのだが、息が詰まることにはやはり堪え難い。


気管支喘息でゴホゴホ言っていても感染症と勘違いされ、白い目で見られてしまう世の中であっても、社会で共存していかなければならない。


そこはわきまえておくべきで、共生社会を崩してしまってはいけないのだ。


言い合いになって揉めたりすることは、尚好まないから、お互いの理解の上での行動が求められてくる。


社会における身の上の課題もようやく乗り越えられて、ほっと一安心という状態になれば、自分にご褒美として、美味いものにありつきたくなるものだ。


安い給料で、家から近いが一度も入ったこともない〝牧寿司〟ののれんをドキドキしながらくぐる。


そして、一瞬の幸福感が漂う美食空間の味わいに浸った余韻のままで寝床に就くのがまたたまらない。


 寝る前に枕に頭を置いて横になりながら、眠くなるまで、森鴎外の『普請中』をはじめからゆっくり読み始めるが、すぐにまぶたが重くなっていく。


 私の今までの考え方に異論を唱える者が存在する。


過去の幾多の苦境に立たされると、心身喪失状態に陥ることから脱却すべく自己統制を図り、心を落ち着けようとする。それを繰り返しているうちに、過去に聞いた唯一無二の友人の言葉がいつもよみがえってくるのだ。


「社会に順応していかなければならない気持ちを少し持った方がいいのは感じるんだけれど、正直、人間嫌いであるのなら、より人間の心理を理解しようと努めた上で、少しずつ無理のない範囲でコミュニケーションを進めていったらどうだろう? 人をはなから決して否定するようなことをすると、入口でその人とは意思疎通が図れなくなり、悪印象がそのまま植え付けられてしまう。社会に拘束されていると感じたら、その枠の範囲で自分にとって何ならできるのかを考えてみるのがいい。人や社会規範から完全に遠ざかった場合、生活が成り立たなくなるのではないかと言われたりもするけども、独り山奥で農作業でもしながら、自足自給で生きる覚悟があるなら、それはそれで別の苦悩がつきまとい、生活破綻か何かはわからないけれど、深い絶望を味わうことになるやもしれぬ。社会から脱却を試みても、今の社会から溢れるよりは、社会の中で好きなことや得意なことをうまく利用して、がんばっていくのがいいんじゃないのかなぁ。心身の状態をできるだけ健康に保ち、少なくても安定した収入をめざすようなことを考えたら、人生は意外にも好転するもんだ。人間って時間や人に拘束されることを好まない傾向があるのは確かで、個々の性格にもよるが、本質的な問題であるからどうしようもない。そこから脱出できたとしても、何度でも言うが、自分自身のことだから自己責任でやるしかないじゃないか。だから、あとはできることをやって満足できる生き方をしていくなら、ヨシとするべきだぜ。君の生き方を否定しているわけじゃないぞ。生き方の選択は君自身で決めることだから、よく考えて納得のいく選択をすることだ」


 目標を定めかけていただけに出鼻をくじかれた感がある。


要するに世間を絶望視したっきりで、社会との関わりを断ち切ってほったらかしにしておくのがよくないのである。


好きなタロット占いでも勉強しながら、投資の研究をしていけるような環境で、ウキウキの状態でいられるようにしたい。


これが一番精神的に健全であると言われているわけで、それには好きなことを糧にしていくことが最も重要だ。


それで生活していければ尚良いとは思うが、自分を大切に生きることが何よりも納得がいく話であるし、何か自分にあったとしても悔いなく果てることができれば何も言うことはないのである。


                            (了)

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