第六十八話

「ほら、出てきた」


 そう囁いたとき、隣のエレナはぴくりとも顔を動かさなかった。ただ眼差しだけを向かいの歩道へ投げ、プラスチックのスプーンで苺アイスをすくい取る。


 イングリットはそこまで器用ではない。何気ない様子を装って顔をあげた。

 東ベルリンの目抜き通り・ウンター・デン・リンデンにはまだ高い陽が降り注ぎ、今日も多くの人と車が行き交っている。歩道には一定間隔で小柄な街路樹が植わり、まさに菩提樹のもとUnter den Lindenを体現していた。


 この中央分離帯も同様だ。幅十数メートルもあろうかという分離帯は「壁」のあるブランデンブルク門までまっすぐ続き、両脇に菩提樹を植えられて、ほぼ遊歩道と化していた。

 樹の足元にはベンチがあり、イングリットたちは表向き、涼やかな木陰で休息を楽しんでいるというわけだ。


 とはいえ都会の喧噪を忘れるには至らない。車道からの騒音と、青白い排気の臭いが邪魔すぎた。駆けぬける乗用車はみな似たり寄ったりのデザインで、稀に混ざる西の外車がすぐ分かる。それらの残像の向こうに彼女はいた。


 柔らかな赤褐色の髪の女性。

 上半分は巨大な水槽にも見えるソーダ色の合成パネル、下半分が暖房のラジエーターのような縦格子の、直線的なモダニズム建築から歩み去る。


 有名なカフェの入った建物だ。敷地は歩道いっぱいまで拡張されて、噴水やテラス席まで設けられている。通りを挟んだ隣の外国人用ホテルも含め、東ベルリンには珍しいほどの華やかさがあった。女性はあちこちへ夢見るような目をやって、人混みのなか、ふわふわと浮遊するみたいに歩を進める。


 ――ミリアム・フリック。二二歳。現在はビルの管理作業員として働いている。


「じろじろ見ない。顔だけ確認したら目線切る」


 言われて、慌てて視線を移した。右隣のエレナは素知らぬ顔で自身のアイスを食らうばかり。どうにも居心地悪くなって左隣のフレーゲルを伺えば、彼女はまだミリアムのほうをぼんやり見ていた。


 気づかれるとまずい。そう肩を叩いて注意しようとした矢先、フレーゲルの目がふっと泳ぐ。右へ、右へ、ミリアムが歩き去ったさらに先へ。

 イングリットもつられて追う。東ドイツにないカラフルな車体たち。西ベルリンからの観光バス群だ。共和国宮殿のほうに向かったのか、すぐに街路樹の重なりに遮られて見えなくなる。


 その途端、フレーゲルはまるで興味を失ったように自身のチョコアイスをすくう。事実最初から無関心だったのだろう。自然にミリアムを追い、視線を切れるきっかけを探していたのだ。

 なるほどこういうやり方もあるのか……内心でそう舌を巻いていると、エレナの肩がくっくと震え、イングリットにちいさく触れた。


「よし、用事終了。じゃあこれ食べきったら帰るか」


 言って苺アイスの最後のひとすくいを口にした。フレーゲルも無表情ながらぱくぱく食べ進め、唇の端をチョコで汚す。


 はあと息をついて膝に置いたカップを見やる。そういえば緊張して一口も食べていない。半分溶けたバニラアイスが、恨めしそうにイングリットを見上げていた。


***


 地下鉄Uバーンに乗って約二〇分、戻ってきたるは第十三部隊の隠れ蓑こと人民公社VEBベルリン陶器貿易。

 傾いた陽を遮るよう、社長室のカーテンを閉じ終わり、イングリットは振り向きながら問いを発した。


「それで、大尉。ご説明をお願いしたいんですが、私たちはどうしてあの人を見せられたんですか?」

「ん。まあひとつは、愛すべき『協力者』の顔ぐらい見とけってとこかな」


 社長机に腰かけながら「イングリットお茶ー」と空のカップを掲げるエレナ。目の前にポットがあるのだから自分で淹れるそぶりくらい見せてほしいのだが。


 嘆息し、カーテンを閉めて回っているあいだに蒸らした紅茶を傾ける。飴色に透き通るアールグレイをエレナのカップに、次いでフレーゲルと自分のカップにも三回ずつ均等に注ぎ、仕上げにソーサーひとつにだけジャムを添えた。

 今日はマーマレードジャム。ついさっきアイスを食べていたのでお茶請けは用意しない。ここまで流れ作業だ。


 フレーゲルはそのあたりの椅子を持ってきて社長机の前にちょこんと座り、紅茶をふうふう冷ましている。エレナはいつも通りジャムを紅茶へ投入して行儀悪くかき混ぜる。イングリットはその傍らにつき、紅茶の用意でぶった切られた会話の穂を継いだ。


「えーと。協力者って言いましたよね。ってことは、あの人も国家保安省の人ですか? それとも非公式協力者IMですかね……あ、まさかレヴィーネ機関の別部隊の人とか、そういうオチじゃ」

「うん全部ハズレ。イングリット落第」


 ティースプーンを引き出しこちらへ突きつけると、紅茶が何滴か机へ落ちた。エレナのこうした振る舞いを見るにつけ、どうせイングリットが掃除するしとか思われているのを感じる。実際そうなのだが。


「じゃあフレーゲルに聞くけど。彼女、どう見えた?」


 フレーゲルを指す。今度はスプーンではなく赤く彩った爪で。


 俯き気味にしながらもエレナの動向を伺い続けていたのか、フレーゲルはさほど驚く様子を見せない。紅茶を机へ置き、手帳にペンを滑らせる。

 丸っこくも幼さの薄れた筆記体。彼女の成長を表しているようで微笑ましい。だが成長しているのは、ただの少女としてだけではない。


『普通の女のひとだった。ちょっと踵を擦り気味に歩いてるし、足音も目立つと思う。尾行とか、できないはず』


 その分析は、目のつけどころからしてイングリットのものとは違っていた。

 かつて育児院で詰めこまれたであろう教育の成果だ。頼もしく思う反面、胸の奥がきゅっと詰まる。子どもの持つべき視点ではない。


 そんなイングリットの感傷をよそに、書きながら思い出してきたのか、少女は隣のページにも筆先を走らせている。


『動きもムダが多い。あちこち見てて注意散漫だし、なのにこっちがじっと見てても監視に気づいた様子なかった。あれが擬装カバーならすごいけど……あのひと、素人以前に、無関係の一般人にしか見えない』

正解リヒティヒ


 愉しげな笑みが回答を告げた。不正解でも、彼女なら同じように唇を歪めるのだろうけど。

 ともあれ奇妙な話だ。フレーゲルの推測が正しいのであればなおさらに。


「彼女はただの一般人民。時々西のテレビ見たりラジオ聞いたりしてる以外なぁんにも後ろめたいこともない、どこにでもいる普通の国民だよ」

「じゃあ、なんで協力者だなんて……」

「国家保安省の役に立ってるから。その意思にかかわらず、さ」


 ここでアールグレイに口をつけ、桜色の唇を湿らせる。その弧が変わらないということはどうやら満足いく味らしい。苦味や渋味を嫌うエレナのために紅茶を淹れるのも、なんだか板についてしまった。


「彼女自身はなんてことなくても、その周辺がクッサい。あそこの建物……リンデンコルソーについて知ってること言ってみ、イングリット」

「え、あ、はい。カフェやバーといった飲食店中心の総合施設ですよね。一階のカフェ・エスプレッソが有名です」


 ミリアムという彼女が出てきた建物のことだ。これくらいならイングリットにも分かる。東ベルリン市民としてもそうだし、何より現行の仕事とも無関係ではない。


「党員から市民まで広く利用する人気店で、向かいに外国人向けホテルインターホテルがあることもあって西側旅行者の利用も多いですね。

 確か、西のスパイと工作担当官ケース・オフィサーの密会場所のひとつって話ですが……」

「そ。まあこんな便利な場所だし当たり前だわな。

 で、当然クリーンな席を確保するための連絡員もいる。西のスパイが後ろ暗いこと話すためには必須だし、運がよけりゃ党のお偉方のテーブルに盗聴器仕掛けるのもできるかも」


 エレナの言う通りだ。スパイたちの密会場所は人気のない場所とは限らない。直接接触には慎重を期すべきだが、監視盗聴対策さえできるなら選択肢として一考の余地はある。


 あとは伝言の受け渡しにも使えるだろう。国籍を問わず人が集まれる場は、そういう意味で実に都合がいい。

 ウンター・デン・リンデンという立地上各国の大使館にも近いから余計にだ。外交官には往々にして情報局員――スパイへ指示を下すような工作担当官が混ざっている。


 とはいえここは共和国首都ベルリン。党と国家保安省のお膝元。

 こんな狼藉を見逃すほど、彼らの目は節穴ではない。


「確かその連絡員って、こちらの二重スパイになったんですよね。スパイとして逮捕されたくなければ協力するようにって」

「そうそう。まったく党は寛大だよ。帝国主義者ファシストへの協力者なんて問答無用で射殺されても文句は言えないってのに、生き残る道をくれてやるんだから。奴も感謝してんじゃないかな、ミールケ大臣の靴でも舐めたがってると思うよ」


 わざとらしくお上を讃えて肩を竦める。こうした称賛の数々が祖国への揶揄にすぎないと、いつかバレてしまうのではないか。それを思うとイングリットの胃も頭も痛くなってやまないのである。


「とはいえ、連中も馬鹿じゃない。最近彼らが情報漏れを疑ってる気がするって報告が連絡員から上がってる。まあ被害妄想で片付けることもできなかないけど、リスクヘッジは基本だし。

 連絡員が二重スパイになったとバレつつある。でもリンデンコルソーみたいなデカい餌場は潰したくない。だったら、我々はどうするべきか」


 ここで若葉色の視線はフレーゲルの方へ。こういう問題にはイングリットより彼女の方が向いてると分かりきった目だ。イングリットとしてはそれを当然ともしたくない。もっと勉強しなければ。

 フレーゲルはペンの尻を唇に当ててしばし黙考、やがて短くインクを綴る。


『連絡員の疑いを晴らす』

「どうやって?」

『信頼できる情報を渡させるとか』

違うファルシュ。二重スパイは連絡員。あくまで伝言の中継や安全な場所のセッティングが仕事だ。連絡員自身に情報収集能力は求められていない」

『じゃあ……連絡員以外から情報が流れたように、誤解させる』

その通りダス シュティムト


 二度目の正答。フレーゲルは誇るでもなく手帳にペンを挟んで閉じ、エレナは褒めるでもなく舌を回す。


「要は囮が欲しいわけだ。で、その囮さえ警戒していればリンデンコルソーは利用できると思わせる。今は連中の内情が少しでも知りたい。リンデンコルソーを放棄して別の場所で密会なんてさせたら、捕捉が難しくなる」


 ここでイングリットにだけ目配せが飛んできた。一瞬だけ考えてすぐ行き当たる。

 おそらく、先日聞かされたオペレーションRYaNとの接点がここなのだ。アメリカが核攻撃するか否かの前兆を、彼らの内輪の会話から探り出す。そういう意図なのだろう。


「つまり、その囮というのがあのミリアムってひとなんですね? 実際には国家保安省とは無関係にもかかわらず、国家保安省への協力者だと思われている……」

「もっと言えば、そう思われるようこっちで手ぇ回してる。家庭電話の敷設に応じたりとか、『国境グレンツ』近辺のお綺麗なアパートに部屋用意したりとか、トラバントの手配早めたりとか。

 まあ、当人にも悪いことじゃないよ。何にもしてないのにIMと同等か、それ以上の特権が貰えるんだから。望外の幸運ってやつだ」

「でもそれって、なんというか……」


 口ごもる。国家保安省の盗聴器が聞き耳を立てている場では滅多な発言はできない。しかし何も反応せずに流すには――こんな部隊にいる時点で今更とはいえ――少々道義的に問題のある話だった。


 たとえば、職場で責任ある地位にあるでもないのに家庭電話を引けることも。

 『国境』……ベルリンの壁近辺での居住を許されることも。

 普通に待てば注文から納車まで一〇年はかかる車が数年で手に入ることも。


 どれも周囲に国家保安省との繋がりを疑わせるのに十分な要素だ。唯一盗聴器に縛られないフレーゲルが問いかける。


『このひと、たぶんみんなに避けられると思う。それも織りこみ済みってこと?』


 そう、国家保安省やそれに協力する密告者は、多くの国民から恐れられている。このミリアムという女性が敬遠されるであろうことも目に見えた。


 弱体化ツェルゼッツングというやり方がある。監視対象の秘密や悪評を周囲にばら撒く、状況証拠から監視されていることを匂わせるなどして、監視対象の心を追いこむ嫌がらせだ。

 自分が国家保安省の標的になったと悟った監視対象は疑心暗鬼となり、周囲から孤立する。そうやって心理的に参らせると同時に、DDRの「正常な」社会との切り離しを図るのだ。


 今回の件とは真逆だが、国家の手で対象の人間関係が破壊されるという意味では同じだった。エレナは含み笑うだけで答えない。フレーゲルの問いなどなかったように話を続ける。


「まあ基本、この件についての我々のお仕事はリンデンコルソーの二重スパイから流れてくる情報の精査。ただ、こういう特殊事情があるのは知っとけって程度かな」


 そうやって締めくくり、机の引き出しからバインダーを取り出す。どうやらミリアムの調査資料らしい。役どころが役どころだからか、監視対象並みに分厚い。


「というわけで、資料。目を通すくらいはしとくよーに」

「はあ……」


 渡された紙の重量に嘆息しつつ肩を落とす。まさかまだイングリットに知らされていない書類があるなんて。エレナも意外と仕事をしていると安堵すべきか、自分を情けなく思うべきなのか。


 この一年、イングリットは確認とサインどころか、エレナの業務を内容問わず投げ渡されている。

 実態としては仕事をほぼ二等分だ。おかげで少尉の身分にもかかわらず、大尉相当の管理や采配をマスターする羽目になった。遠からずサボりに利用される気がする。


 むろん本部には秘密である。正直勘弁してほしい。明らかにエレナの方が手慣れているので、効率としても意味などないのだ。疲れるというより自分の力不足を突きつけられる。

 だというのにこの上司は「イングリットならやれるだろ」と言わんばかりに任せてくるのだから、本当にもう、ずるい。


 バインダーをめくり、手早く目を通す。先ほどまで知らされていたのは名前と年齢と職業だけだ。フレーゲルにも伝える意味でかいつまんで読み上げる。


「ええと、ミリアム・フリック。暗号名は『自律人形アウトーマーツ』。1961年6月4日生まれの22歳、O型。生まれはライプツィヒ。父の仕事の都合で一般教育総合学校POSの十年生になる際にエーベルスヴァルデへ引っ越していますね。

 少年団ピオニール自由ドイツ青年団FDJでの素行も、ええ、特に問題ないです。POS卒業後にビル設備管理の職業教育を受け、今の職に就いてベルリンで自立、現在に至る……」


 と、ここでフレーゲルの顔を窺う。話についてこれているか確認するためだ。聡い子なのであまり心配していないが。

 しかし彼女は俯いて、いかなる反応も見せてくれない。まるまる十秒ほど経っても同じだ。少し屈み気味になり、フレーゲルと目線を合わせる。


「……あの、フレーゲルちゃん? どうかしました?」


 彼女が見下ろすのは一枚の紙だ。どうやらバインダーから抜け落ちたらしい。

 アルバムのようにミリアムの白黒写真が数枚貼られ、フレーゲルはその一枚を食い入るように見つめていた。深海の瞳が瞬くたびにさざめき立ち、静かな動揺を告げている。


 つられてイングリットも覗きこむ。どうやら集合写真を拡大したもののようで画質が粗い。十五歳ほどのミリアムは、友人らしい少女と肩を寄せ合い、眩しい笑顔を向けていた。

 素敵な写真だ。傍らの事務的な補足が、その輝きに冷や水を浴びせている以外は。


『1974年9月、ライプツィヒのPOS在学時に撮影。

 同級生のエマ・ホフマン(資料OPK-Akte 8630/64、暗号名「試金石プロビーアシュタイン」。1981年8月に逮捕、現在収監中。対象への思想汚染の兆候はなし)とともに』

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