第六十七話
「――ではヴァイス、詳細はそこに。
「
お約束のやり取りにきつく眼を細め、ミュラーは背を向けた。
まとめあげた黒髪に、黒い衣服と黒いパンプス。真っ黒なシルエットに国家保安省の上着の灰緑を浮き上がらせ、副官の巨漢と去ってゆく。
やがてふたつの影はレールの先の暗がりに消え、足音の残響も聞こえなくなる。そこで受け取った封筒を懐に収め、エレナはくるりと踵を返した。
いつもの会合だ。いつも通り暗号を解読し、いつも通り指定の幽霊駅を訪れ、いつも通り地下鉄のトンネルで密会する。何も変わったところなどない。こちらの胃がねじ切れそうなエレナとミュラーの応酬も含めて。
そのはずなのに違和感があった。フレーゲルを留守番させたのはこれで数回目だし、エレナの軽薄さは残念なことにいささかも衰えない。ミュラーも、西ベルリンでの任務以降手出しこそしてこないが、あの張りつめた緊張感は一貫していた。
だから違和感の正体はそこにはない。それも今回限りの話ではないのだ。
会合のたび小さな「ずれ」を積み重ね、いまやっと、イングリットはひとつの疑問に辿りつこうとしていた。
(なんだか、最近の任務、ちょっと……)
「なーんか最近の任務はおかしいなーとか、そういうこと考えてるだろ、イングリット同志少尉?」
耳をかすめた吐息に、イングリットははっと我に返った。
最初に感じたのは涼しい夜気だ。いつの間にか地下鉄でも幽霊駅でもなく、夜に沈んだ東ベルリンの街並みが広がっている。
どうやら車を停めた場所へ戻るところだったらしい。それを理解できてもなお動揺してしまうのは、耳朶に残るむずかゆい感覚と、エレナの無防備な発言ゆえだ。
「な、なんで分かっ……というかここ外ですよ! 階級で呼ぶのは、」
「だいじょーぶ大丈夫。そんな神経質になってると将来ハゲるぞ、少佐のお付きみたいにさ」
「誰が原因だと思って……」
その先ははあ、と息をついて諦めた。エレナは何を言っても反省などしない。本当にイングリットがハゲても腹を抱えて笑うだろう。そこは心配してくれるであろうフレーゲルとの大きな差だ……
そんなことを思いつつ唇を開く。静まりかえった大気を揺らさないよう、か細く小さく。
「まあ、そうですね。いくら前とは管轄が違うとはいえ、さすがに気になりますよ」
前とは管轄が違う。その意味合いは西ベルリンの任務を終えてしばらくした頃、一年と少し前まで遡る。
西ベルリンでの任務達成を受け、エレナたち第十三部隊は賞賛された。西側の追跡をかいくぐり、見事裏切り者を東へ送り届けてきたのだ。確かに褒められるべき戦果ではあるだろう。
そこで第十三部隊――正確にはそれを統率するエレナの立ち位置が少し変わった。「少佐付き戦略補佐大尉」という肩書きを受けた、つまりは栄転。ただしこの「少佐」はむろんミュラーのことである。
要は昇進という建前で、ミュラーがより直接的に干渉できる立場に置かれたのだ。
いくら策を躱してもただでは逃がしてくれない。ミュラーのそうしたところを恐ろしく、また老獪に思う。
そういうわけで、今の第十三部隊でミュラーの影響力が強まっているのは事実なのだが……それを加味しても、現状の説明にはならない気がしている。
「ふーん。具体的には?」
「えと、なんだか具体的な指示の頻度が高い気がしますし……でもその割にはなんというか、大人しいじゃないですか。いえ、荒事にならないに越したことはないんですけど、それにしても変じゃないかと」
つまりはここに集約されるのだ。国家保安省の特務機関たるレヴィーネ機関の主任務は「防諜」である。それも表には出せないほど手段を選ばない、暴力を用いる
にもかかわらず、近ごろは対象の追跡に盗聴に周辺関係の洗い出しという、襲撃の前段階のようなことを延々続けている。まるで普通の防諜機関だ。
かといって忙しくないのかといえばそれも違い、多くて月に一度あるかないかだったミュラーとの会合は、今や隔週ペースとなっている。
気づけばここ数か月はそんな感じだ。一時的な傾向と片付けるには長すぎた。なにか自分たちに知らされていない事情があるのではないかと、イングリットの疑問はここに行き着く。
部下の言葉を聞き、エレナはにやりと笑みを深めた。
街灯の真下を通るたび、その
「なるほどね。んじゃイングリットに質問。最近の東西関係、どう思う?」
「……良くは、ありませんよね。確実に。レーガン大統領は米国の軍備を増強してますし、ソ連に対して敵対的な姿勢を強めてます」
少し考え、まず最も大きな要素を挙げる。81年に米国大統領になったロナルド・レーガンは、就任以来ソ連への警戒を崩していない。
今年に入ってからはよりその傾向が目立つようになった。3月の演説でソ連を名指しで「悪の帝国」と呼び、ソ連の新書記長・アンドロポフを激怒させた記憶も新しい。
いくら東西の
加えて、米ソの関係を決定的に悪化させる事件が、つい今月起こったばかりだ。
「そこにこの間の大韓航空撃墜事件でしょう。民間機を装ったスパイ機って話ですけど、真偽がどうあれ米国側は違うと主張するでしょうし……米ソの関係が悪化する以上、欧州国家も東西で疎遠にならざるを得ないかと」
そう。いま世界を騒がせているのが、この悲劇的な航空機撃墜事件だ。
9月1日。ニューヨークの空港を出てソウルに向かった旅客機が、ソ連の領空を犯して撃ち落とされた。
なぜ旅客機がソ連上空を通過しようとしたかは分からない。ソ連の公式表明では「民間機を装ったスパイ機だったため撃墜した」とのことだが、東側の人間であるイングリットから聞いても苦しい釈明だ。
さすがに民間機と知った上で墜としたわけではないだろう。しかし詳細の確認を怠ったまま撃墜を決めてしまったのではと、そうした疑念が拭えない。西側でソ連の責任が追及されていることは想像に難くなかった。
結果的に米国の言う「悪の帝国」イメージを裏付けてしまう形となったわけだ。ソ連と同じく東側に属する身としては頭が痛い。
「その上、このままいけば十一月には
荒事が少ないのはともかく、最近の任務の多さはやっぱりこのあたりに起因するんでしょうか?」
「四〇点。情報力不足だよイングリット」
にやにや吊り上がった唇に、ばっさり切り捨てられた。
思わず「へ?」などと間の抜けた声が漏れてしまう。即興で組み上げたとはいえ、そこそこ客観的かつ正確に分析できている自信があったのだ。それがここまで簡単に否定されてしまうとは。恥ずかしいだとか情けないだとか以前にただ戸惑う。
エレナの表情にも失望や呆れはなかった。こちらをからかうときの見慣れた顔だ。赤い爪で口元を叩いて、悪戯っぽい流し目でイングリットを見やる。
「まあしゃーないかな。イングリットの立場じゃ入ってくる情報にも限りがあるし。まず今私らがやらされてるような任務だけど、大枠としてはオペレーションRYaNって呼ばれてる」
「りゃ……ええと……?」
「ライアン。ソ連どののお国言葉で『
作戦名は知られても目的が分かりにくいようにってのが鉄則なのになあ、とけらけら笑うエレナ。だがイングリットは置いてけぼりだ。笑いどころが分からない。歩幅の関係で遅れた半歩を慌てて詰め、傍らを見上げて問いかける。
「ええーと。その目的っていうのは、つまり?」
「だから、文字通りだって。『
エレナの言葉は軽やかだった。まるで不出来な映画を面白おかしく笑い飛ばすように。
だからイングリットは呆れてしまおうと思ったのだ。冗談はやめてくださいよとか、エレナさんにしては分かりやすい嘘ですねとか言って。
なのに片側の口端はこわばったように持ち上がり、乾いた笑い声が漏れてきた。にわかにうるさくなった心臓の鼓動が、そう命じるのだろうか。
「核、って。いえ、いくらなんでもそんなわけ……そういうものの見方もあるってだけ、ですよね」
「ところが大マジ。KGB議長時代の同志アンドロポフ直々のご指令だよ。「アメリカ人どもは核戦争を仕掛ける気だ、ならその前に打って出る」――ってのが大兄ソ連の中心見解。
当然同志アンドロポフが書記長になった今もこの方針は継続してるし、だから弟分たる我々もそれにのっとる」
一瞬、思考が止まった。
いや止まったのではない。停滞しただけだ。オペレーションRYaN。核ミサイル攻撃。KGB。アンドロポフ書記長。ソ連。レーガン大統領。アメリカ。打って出る――
数々の要素を咀嚼しきれない。極彩色の単語たちはぐるぐる渦巻き、酩酊めいた混乱へ叩き落としてくる。
けれど、ただ一語。
「核戦争」のひとことがすべての言葉に指向性を与え、イングリットの意識を奪いあげた。
「な……あ、ぇ? せん、そっ…………戦争!? はあっ!?」
「あっはは。イングリットすっごい顔。酸欠の魚じゃん、見る?」
「言ってる場合ですか!?」
手鏡を取り出しかけたエレナの腕を掴み、詰め寄る。部下の礼を逸している自覚はあったが止まらなかった。
だってこんなの、冗談にしても
エレナはこんな冗談を言わない。だからこそ否定しなければいけなかった。
「戦争って、だってそんなわけ……! 核はあくまで抑止の手段であって、実際に使ってしまえばあとは破壊の応酬ですよ!? なにも残らないです!
いえ、それを極力避けるために先制で飽和攻撃するというのが教本通りではありますが、それでも被害は甚大でしょうし……とにかく、仮にもいま外交してるいち国家です。そんな愚かなことありえないですよ!」
「まあクレムリンの
しー、と指先で唇に触れられる。そこでようやく自分が声の制御を欠いていたことに気がついた。
慌てて口を閉じ、周囲を見回す。立ち並ぶアパートは墓標のように沈黙したままだ。イングリットの声で目覚めて外を窺う気配もない。
ほっと胸を撫で下ろすと、いくらか冷静さが戻ってきた。エレナの腕を放して消え入りそうな声で謝る。エレナは「待て」ができた犬への笑みで応え、再び歩み出す。二対の足音がばらばらと石畳を叩き、夜の静けさに溶け消える。
「まず大韓航空の件だけど。あれもさ、民間機かどうかはさておき、撃墜した理由がある」
「と、いいますと」
「簡単だよ。4月だっけか、アメリカの艦隊がカムチャッカ半島の近くで演習して、そっから飛行機飛ばして領空侵犯してきたんだって」
「は!?」
そう声をあげたのは、口元を手のひらで覆われてからだった。
そのまま涼しい面持ちで手を離し、ひらひら振ってみせるエレナ。反応を読みきられていたことが悔しいようなありがたいような。金髪の一房を指に絡めて弄び、エレナは素知らぬ顔をする。
「ちなみに、二年くらい前にはコラ半島の近くに西の船がいた可能性があるらしいよ。あそこの基地って原子力艦もいたはずだしさあ、これ本当なら気づかれずに接近されてたの相当ヤバいよなあ」
「ちょ……待ってください。そんなの聞いたことありませんが……」
「極秘だもん。当たり前じゃん」
さらりと言われる。そんな重大機密をどこで手に入れたかも謎だったが、もはやエレナを問い質すどころではなかった。
カムチャッカ半島とコラ半島近辺での領域侵犯。これが事実だとしたら、ソ連の最東端と最西端の両方まで迫られていたことになる。本来ならあってはならないことだ。
「で、数々の敵対行為をお受けになったアンドロポフ書記長閣下はこうお考えあそばされた。「未確認艦や未確認機は即・断・罪」。こういう経緯で韓国の民間機だかスパイ機だかもあっさり撃ち落とされたわけだ。アーメン」
「え、えぇ……」
おどけて胸元で十字を切るエレナに、イングリットはもう困惑をこぼすしかない。
西側による明確な挑発行為。その上彼らの侵入を許し、ソ連の探知能力のお粗末さを晒してしまった。ソ連が警戒を強めるのも当然だ。民間機に過剰反応してしまった理由としては、納得できないこともなかった。
ただ、そこから一足飛びに核戦争になるのが分からない。そう頭をひねっているとエレナの声が降ってくる。
「あと、イングリットの言ってた……なんだっけ、核の応酬? あれもアメ公には意味ないよ」
「というと……」
「例のアレだよ、「スターウォーズ計画」。これはイングリットも知ってるはずだけど」
それで思い当たるものは、ひとつしかなかった。
その概要は確かにイングリットの耳にも入っている。アメリカへ撃ち出された大陸間弾道ミサイルを各種衛星等で察知し、本土へ辿りつく前に撃ち落とすというものだ。
その構想の壮大さから、有名なSF映画になぞらえてスターウォーズ計画とも呼ばれているらしい。もっともイングリット自身はスターウォーズとやらを見たことがないのだが。
実現すれば大変なことだ。しかしイングリットは、そこにあまり危機感を抱いてはいなかった。
「でも、あれって構想段階ですよね? それに「飛翔中の核ミサイルを無効化する」となると明らかに国防目的です。
確かにあんなものがあれば核戦争で絶対優位に立てますけど……わざわざ演説で公表したってことは、実際の運用よりソ連に対する牽制の意味合いが強いと思いますよ」
そう、イングリットが呑気に構えていられる理由はここだ。
アメリカ側が本当に核を使うつもりなら、何も言わずに仕掛けている。わざわざ手の内を晒す必要はないのだ。
となるとSDIは自国民へのアピールと、ソ連の抑止を狙ったものの可能性が高い。もしソ連が核を撃ってもアメリカは無傷で仕返しできるのだぞ、と。
だから現時点のアメリカに核戦争の意図は薄い……イングリットのそうした分析に、エレナは珍しく異議を挟まず頷いた。
「イングリットにしてはいい線いってるじゃん。けどまあ、モスクワのお歴々はそう思わないわけでさ。
こそこそソ連のウィークポイント探して、こっちの核を無効化する策も立てた。今年来年には西欧への新しい核配備の目処もある。そのうえ大韓航空機の事件で大義名分までできたわけだ。アメリカが開戦できる要素は、出揃ってる」
すべてを嘲弄するような笑みには、一抹の苦笑が混ざっていた。ソ連が核攻撃を警戒している以上、衛星国たるDDRに口出しする権利はない。そうした諦めゆえだろうか。
実際のところは分からない。次にはエレナの背が軽やかに踊りでたから。電灯のもとでこちらを振り向いた時には、いつものニヤつきに戻っていたから。
「そんなわけで、米国が仕掛けてくる先制攻撃を事前に察知しようってのがオペレーションRYaN。基本は外国のスパイに色々情報送らせるのが主らしいけど。面白いぞ、国防省の電気が何時まで何個ついてるかレポートしろとか、牛の屠殺量や献血車が増えてたら戦争準備だとかさあ……」
「そんな……戦争の指標にしては曖昧すぎませんか?」
「スローガンは『
くすくすと心底おかしげに笑い、街灯に背を預けてしなだれかかる。ぼやけたオレンジ色の明かりを浴び、エレナの肌はあわい光と朧な陰影をまとう。
「で、KGBだけでなく我々DDRの防諜部門にもお鉢が回ってきてるのが最近の流れ。西側が戦争準備に入ったんなら、こっちに植えたスパイの動きにも変化が出るのが道理だ。ちょっかいかけずに遠くから見守るのもそういうことだよ」
「捕らえるか殺すかしてしまえば、そこから先の方針を探れなくなるから、ですか」
「まあ二重スパイにできれば万々歳だけど、下手に接触したら青酸カリで自殺されかねないし」
打てば響くように返るエレナの答え。なるほど話としては筋が通る。東西の関係がいっそう危機感を増した今、第十三部隊もその煽りを受けざるを得ない。
イングリットたちが荒事に立ち会うことがなくなったのはありがたかった。しかし逆に言えば、イングリットたちが誰かを始末したところで解決できる問題など、もうほとんどないのだ――。
理解して、ぞくりと冷たいものが背を突きぬける。それを読んだようにエレナは肩をすくめ、三日月の笑みを崩さず問いかけた。
「以上、イングリットが考えてた百倍くらい今の情勢は危ないわけだ。
「……
頷く動作にも疲労が隠せない。深夜に駆り出されたことよりも、情報の奔流を処理し、現状を目の当たりにする方がよっぽど消耗した。
だがエレナが構うことはない。電灯から身を離すとイングリットを置いて歩き出し、一台の路上駐車された乗用車――ヴァルトブルク353の前で足を止める。
そこでイングリットも気がついた。似た車種が並んでいて分からなかったが、あれはイングリットたちの乗ってきた車だ。
「よーし、んじゃ帰るぞ。眠いし、イングリット運転よろしく」
欠伸ひとつせず言ってのける傍若無人は、いつもなら文句のひとつも投げてやりたくなるものだ。しかし今回ばかりはその気力もなかった。唯々諾々とハンドルを握り、アクセルを踏んで、イングリットは鉄の塊を走らせる。
いつ壊れるとも知れない、最前線の街並みで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます