第六十六話
レニ・ミュラーの幸福。
それは甘いお菓子、可愛らしい洋服、きれいな靴、レースをあしらったリボン、色とりどりの花束、女の子らしいものすべてのかたちをしている。
けれどそれらが手に入った今、心は満たされないままでいた。喜びや楽しさは一時の安らぎにもならず散っていく。なのに哀しみも苦しみもやりきれない苛立ちも、すべてが根を張ったようにレニを苛むのだ。
この虚しさにどう抗えばいいか、レニは知らない。ただ手を休めないだけ。腹ばいになったまま呼吸をとめ、限りなく静に近い身体で引き金を絞るだけだ。
――さすが私の娘だわ。
一度聞いたきりのやさしい言葉を、破れた胸で唱えながら。
「全弾命中。お見事です」
「……当然だわ。うるさいから黙ってて」
分かりきったことを告げられたのは、弾倉ふたつぶんの銃弾を使い切り、イヤーマフを外したときだった。
伏せた姿勢のまま構えを解く。狙撃の際は両目を開いたままスコープを覗くのがレニのやり方だが、長時間違う景色を見るのはやはり慣れない。錠剤をいくつか口に放り込んで噛み砕きながら、乾いた眼でしぱしぱ瞬きをする。ぼやけていた視界が次第にひとつの像を結んでいく。
狙撃場はだだっ広い草原だ。濃い緑の匂いが鼻につき、青空は涼しく眩しく澄んでいた。極秘の養護施設『
きらきらした若葉色の景色。砂嚢に支えられた
クライン。レニに随伴するのみならず、服が汚れないようコンクリートの射座にブルーシートを敷き、双眼鏡で着弾確認までする鬱陶しい男。そのくせ、弾の半分が的の外縁部へ集中していることには言及しない偽善者。
レニを気遣っているのが丸わかりで、かえってデリカシーを感じない。こういうのは生理的に嫌いなのだ。加えてレニの愛するひとに重用されていると思うと、いっそ怒りさえ覚える。死ねばいい。
けれどいちばん嫌いなのは、黙れと言ったのにこうして彼へ問いかけてしまう、心の弱ったレニ自身だ。
「ねえ、クライン」
「はい」
「最近、おかあさまは、レニについてなにか言ってた?」
「……」
「そう」
無言は肯定だ。クラインという男は、それらしい誤魔化しを発せるほど器用ではない。
そんなことが分かってしまう程度には彼と接した事実にも、愛する「おかあさま」と過ごした時間がそれ以下である現実にも、レニの胸はかき乱された。起き上がって腰を下ろす。真っ白なワンピースの裾がブルーシートに広がって、柔らかに波うつギャザーは脚のかたちを隠してくれる。
義母の与えてくれたもの。レニのなりたかった姿。
それを叶えてなお、レニは嘆かずにはいられない。
「レニはもう、いらないのかしら」
「……」
「もう何ヶ月もおかあさまとお話してないわ。ううん、見てすらもらえてない」
一度口にしてしまえばもう駄目だった。自身の惰弱さに苛立ち、少年が無理やり出すような甲高い声に苛立ち、嫌いなクラインへそれを吐き出す情けなさに苛立つ。これが何度目かも分からないから、苛立ちはより加速するのだ。
一年半前、レニはミュラーの命令に背いた。
ミュラーのためのおこないが、結果的に彼女の怒りを買ってしまった。動機が間違っていたとは思わない。エレナ・ヴァイスなどという女、ミュラーのためにもレニ自身のためにも死ねばいい。けれどその考えがミュラーの逆鱗に触れたのも明らかだった。
あれ以来ミュラーからの指令はない。「レニが第三者の差し金で動いた」という疑いは晴れたらしく、同じ住まいで生活することは許されている。衣服なり装備なりレニが欲するものも変わらず手配してくれた。
しかし、それらをミュラーの役に立たせる機会は巡ってこない。ようやっと思いついたらしいフォローを挟むこの
「……少佐は、近ごろお忙しいですから」
「忙しいなら、それこそレニの出番だわ。おかあさまの敵はレニが絶対に殺してみせる」
直情のままに言い切って、はっと口を押さえる。例の件はこれで叱られたのだ。金の猫毛が頬を打つのも構わず、必死に首を振る。
「いいえ、いいえ殺すだけじゃない。おかあさまの指示は守るわ、今度こそ。もうぜったいぜったい、勝手なことなんてしない……なのに」
そう示すためのチャンスさえ許されない。その現実に、目頭がどうしようもないくらい熱く滲んだ。
やがて熱はこぼれおちて頬を濡らす。激情の渦が心臓をきつく締めあげ、肺まで絞って嗚咽を生みだす。中核にあるのは怒りでも苛立ちでもない。ただ、悲しみだけだった。
闇を凝り固めたようなあの瞳で、血のように赤いあの唇で、白手袋に包まれたあの指で。
レニを見てほしい、レニに語りかけてほしい、レニに触れてほしい。
レニが願うのは、それだけなのに。
「レニは……レニはおかあさまのために、なにをすればいいの……?」
囁きは涙に溶け崩れ、もはや取り繕うことを忘れていた。
男の子のように低く掠れた大嫌いな声。袖に包まれてもわかる、過剰発達の筋肉が膝を抱く。
醜い身体だ。けれど以前ほどには憎んでいない。なりたい自分へ近づけたから。可愛らしい洋服を、靴を、リボンを、彼女が与えてくれたから。
何よりこの身体になればこそ、彼女と出会うことができて、だから。
「おかあさまに認めてもらえれば、レニはなんだっていいのに……!」
――みんな嫌いで、みんな汚くて、みんな死ねばいい。かつてのレニの世界には、そう呪うべきものしか存在しなかった。
ミュラーと出会って世界が開けたのだ。誰かを好きになることができた。報いたいと願い、欲されたいと祈った。この感情は尊いものだと、レニは信じて疑わなかった。
けれど違う。愛は傷にもなりえる。一途な想いも愛する気持ちも、誰かが受け止めてくれなければ空転するだけ。噛みあわない歯車はがりがりと胸の内側を削り、その痛みを、レニは愛ゆえに知ったのだ。
そう、今だって痛い。泣きじゃくる熱い眼球が、嗚咽に擦り切れる喉が、涙に浸かって麻痺した脳が、じんじんと痛んで痛んで仕方がない。
とはいえやはり不本意だった。痛みの海からレニを引っ張りあげるのが、デリカシーに欠けたこの大人だなんて。
「不要な存在であれば、少佐はとうに切り捨てています。お傍に置かれているのは、つまり、そういうことかと」
「…………」
「いつか、お声はかかります。それまでは牙を磨きましょう。少佐のご期待に応えられるよう」
「……うるさい。言われなくても、わかってる」
袖で涙を拭って毒づく。訥々としたクラインの慰めは不格好極まりなく、こんな朴念仁の前では泣いているのも馬鹿らしくなった。彼の言うようなことなど、レニはとっくに知っている。
言い知れない痛みは苦しかった。何度も逃れようと泣き喚いた。けれど癒えない苦痛のその果てに、レニはひとつの真理を悟ったのだ。
この痛みはレニが彼女を愛する証。
痛みがずっと引かないのは、レニの慕情がいささかも損なわれていないから。
それを誇りと思える。ならばやることは決まっていた。義母を信じつづけて時を待つ。時おりやりきれない痛みに溺れ、それでもレニは手を休めない。
この愛がある限り、レニに諦める選択肢などないのだから。
「おかあさまはレニの女王様だわ。おかあさまに貰ったすべてへ報いるために、レニはここにいるのよ」
白皙の肌と黒檀の髪、白雪姫が魔女の女王になったような彼女の
レニ・ミュラーは顔をあげ、再びスコープの向こうへ銃弾を放つ。
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