第六十五話

 そうして1983年9月頭の某日曜、イングリット・ケルナーは毎度毎度のお説教に励むのだ。


「ほんっっっと、あり得ないです! 信じられません! 外でいったい何やってるんですか!!」

「外じゃないよ、地下だしあそこ。アオカンしてたみたいな言い方語弊あるわ」

「そういう問題じゃないの分かってますよね!?」


 そもそもアオカンってなんだろうとか思うのだが、聞けば話を逸らされるのは分かりきっていたので流す。代わりにキッと睨みを強めるのに女の唇は弧を増すばかり。午後になったばかりの陽射しが窓ガラス越しに射しこんで、彼女の金髪をきらきら縁取る。


 東ベルリンの住宅街・ヴァイセンゼー地区の一角、外壁に大戦の銃痕きずあと残すアパートにて。帰宅早々隣の部屋へ殴り込み、イングリットは上司と少女を前に仁王立ちしていた。

 ひとつのソファに離れて座るふたり。片やコメディ番組でも眺めるような気楽さで頬杖つくエレナ、片や神妙に俯きつつも彼女の動向を探っているフレーゲル。盗聴器の無力化されたエレナの部屋で、こうして眉を吊り上げるのも何度目だろう。そのたび双方進歩がないと嘆息するのだ。


 今回の犯行現場は射撃場だった。射撃場といっても、このDDRドイツ民主共和国で一般人の銃器保持は厳しく取り締まられている。軍を除けば、せいぜい青少年の軍事レクリエーションや射撃スポーツくらいにしか許されないだろう。

 だがこの国の秘密警察にして諜報機関・国家保安省シュタージ――その対テロ特務機関が使用するともなれば話は別だ。


 一般市民の顔をしながら利用できる場所に設けられた、秘密の射撃場。

 あの個人用シューティングレンジもそのひとつで、とあるレコード店で許可証と合い言葉を示せば、国家保安省の息のかかった店主に地下へ案内される。一般の客は誰も気にしない。店員とのコネがあれば裏で品薄の商品を売ってもらえることなど、社会主義国家では常識だ。


 そこに月一で通うのも、ひとえに射撃訓練という目的あってのこと。断じてイングリットの目を盗んで後ろめたい行為に走らせるためではない。痛む頭を押さえつつ、現実的かつ深刻な危険リスクを切り出す。


「というか、あんなの本当に本部にバレますよ……どうするんですかいったい」

「大丈夫だって。あんなバンバン銃撃つとこに盗聴器なんて仕掛けるわけないし、監視カメラは撃って壊したし。その先は見られてない」

「撃っ……ちょ、いったいどういう……!?」

「フレーゲル返り討ちにしたときちょっと。まあ音声ないんだし言い訳はいくらでも立つよ。ああいう訓練でしたー流れ弾で機材壊してごめんなさーい、ってさ」


 ぺろりと舌を出す仕草は、年甲斐もないのにどこか妖しく彼女を飾る。こんな顔をしても様になるのは本当にずるい。当然のように最低限の手は打ってあることも含めて。

 こうなるとイングリットはもう何も言えない。いや、倫理的な問題は山積みだし何度だって口を出すが、的確に危険要素を潰す手際には感謝するしかなかった。これは結果的にフレーゲルの身も守っている。


 だからとりあえずエレナへの説教はいったん棚上げとし、もうひとりの容疑者へ言葉を向けるのだ。


「ああもう……大尉も大尉ですけど、フレーゲルちゃんも自重してください。大尉が場所選ばないのは分かってるでしょう? 本当獣みたいなんですからこの人」

ごめんなさいVerzeih mir


 そう綴る筆跡は手慣れたものだ。イングリットとしても何度この文字を見たか分からないし、イングリットへの謝罪に嘘偽りがないのも知っていた。

 問題はただひとつ。この反省はあくまでイングリットを心配させたことに対するものであり、彼女が自身のおこないに一片の後悔も抱いていない事実である。


 エレナによってフレーゲルが一方的に手籠めにされる……そんな段階はとうに通りすぎていた。

 少女の手は憎い仇へ届くようになり、エレナの肌は何度も生傷で上書きされる。一年半ほど前、西ベルリンでの任務からいくらか経った頃には、もうそんな調子だった。


 察知したときは歯を食いしばった。フレーゲルが復讐を諦めきれなかったことも悲しかったし、彼女がDDRへ残る理由に気づけなかった自分へ怒りすら覚えた。

 だが悔いてばかりもいられないから、次には決意を新たにしたのだ。こうなれば徹底的に邪魔するのみだと。


 そこからはふたりの間に遮二無二割りこんでいった。夜中にフレーゲルが抜けだそうとしたことに気づけば笑顔で立ち塞がり、エレナがいかがわしい手でフレーゲルに触れようとすれば即座に叩き落とした。

 とはいえ討ち漏らしがあるのも事実で、たまにこうした事態が発生する。そうなると対症療法しかないのだ。同じ状況を防ぐべく、有無を言わせず介入する。


「次回からは私も一緒のレンジに入りますからね。窮屈になりますけど諦めてください。……あ、なんならフレーゲルちゃん、私に教えてくれませんか? 私まだまだ下手で。フレーゲルちゃんの方が先輩ですし、勉強させてください」


 こくりと頷く顔は相変わらずの無表情。しかし顔立ちは、ここに来た当初に比べるとずいぶん成長している。


 子どもらしくふっくらした頬はすこし面長になった。鼻もちょっぴり高くなり、伏せがちな碧眼も相まって、意外に大人っぽく見える瞬間もある。栗色の髪はいつの間にか肩につく長さで固定された。

 身長もここ一年でぐっと伸び、今は一五五センチほどだろう。このままいけばイングリットを抜かすかもしれない。今は季節外れだから身につけていないが、あの大きなコートの丈にも追いついてきた。


 もう十三歳。そう思うと、感慨深い思いが今更ながらに胸へと染みこむ。


 イングリットは彼女にとっていい保護者ではないだろう。頼りないし力不足だし欠点だらけだ。

 けれどフレーゲルが心許してくれているのは伝わるから応えたい。傍にいる人間として、イングリットが思う正義をぶつけたい。


(ふたりは、きっと止まらない。けど私だって、諦めてしまいたくないから)


 フレーゲルの殺意は頑なで、エレナはそれを受け入れている。ふたりはとうに同じ地平に立っていた。イングリットの手は、どうあってもあそこには届かないのかもしれない。


 それでも足掻きたいのだ。エレナには死んでほしくないし、フレーゲルには復讐などに生きてほしくない。

 レヴィーネ機関第十三部隊の副官、イングリット・ケルナーは我儘ワガママだから、どちらも手放すことなどしたくなかった。


「じゃあ今回のお仕置きですけど。フレーゲルちゃんは私とみっちり文学のお勉強です。大尉は三日間お菓子抜き」


 眼鏡を押し上げながら言い放つ。文学の類が苦手なフレーゲルは顔を強張らせ、エレナは「えー」と不満そうに口を尖らせるものの、これらが何の抑止力にもならないのは実証済みだ。

 だからイングリットはすこし考えて、最後にもうひとつ付け足した。


「……それから、おふたりは私と一緒にピクニックに行きます。文句ありませんね?」


 そう告げると、少女の眼は丸くなり、女の眼は細まった。


 してやったり。悪戯がうまくいったような、ちょっぴり溜飲がさがるような小気味よさ。フレーゲルのペンが手帳を走り、困惑をにじませ首を傾げる。


『イングリット。最後、なんて言ったの?』

「ピクニックです。今から。日曜ですし、混んでるでしょうけど」

「ふうん……お仕置きとか言いつつ、イングリットの私欲に走ってる気がするけど?」

「そんなの最初からですよ。こうやってお説教してるのも私のワガママなんですから。だったら、おふたりを私のやりたいことに付き合わせるのだって一緒です」


 からかう言葉も真正面から受け流す。

 何年も彼女に翻弄されてきたのは伊達ではない。イングリットにもある程度の経験則があった。まっすぐに心をぶつければ、エレナはそれに応えてくれる。


 事実、エレナはにやにや肩をすくめるだけで何も言わない。フレーゲルも特に異議はないようだ。ちいさく眉をさげてイングリットを伺っているのは、その意図をはかりかねているだけだろう。


 思わず苦笑してしまう。意図などない。イングリットはただ、ふたりとともにいたいだけ。

 だから右手で女の腕を、左手で少女の腕を引き、ソファから立ち上がらせる。


「さあ行きましょう。今日はいい天気ですし、大尉お気に入りの白の湖ヴァイサーゼーでどうですか? きっと楽しいですよ!」


 そうと決まれば善は急げ。お昼もまだ食べていないし、軽くサンドイッチでも準備しよう。陽の降り注ぐ湖畔に腰を下ろし、泳ぐ鴨を眺めよう。穏やかにとはいかないだろうけれど、それがイングリットたちのいつも通りなのだから。


 ――イングリットがエレナに拾われて、そこにフレーゲルが加わって。こんな三人が揃ってもう二年が経とうとしている。


 色々なことがあった。いつも好き勝手やらかす上司にも、隙あらば刃を奔らせる少女にも、イングリットは毎日のように頭を悩ませている。

 けれどイングリットは彼女たちが好きだから。一度すべてを失ったその果てで、イングリットの正義を見つけてくれたひと。イングリットとは別の正義に身を投げて、それでもイングリットを慕ってくれる女の子。どちらもかけがえのない輝きだから。


 驚いて、慌てて、困って、叱って、振り回されて。

 この日々がずっと続きますようにと、愚かにもイングリットは、そう願ってやまないのだ。

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