第一部:菩提樹のうた
第六十四話
わたしは瓦礫に世界を見た
世界になにかを見るまえに
わたしは死と暴力を見た
幼いわたしは、もう老いていた
(中略)
たえまなく走ることを覚えた
涙も憎しみも持たず泣くことを覚えた
わたしのなかで、愛は逃げ場を見つけられないままなのに
わたしを救う生者は、だれひとりとしていなかった
何度も何度も
わたしを放っておかない、なにかがいたから
――インゲ・ミュラーの詩「1945」より
***
引き金を絞り、反動を受け入れ、
ただそれだけの作業に、少女はどうにも馴染めなかった。
理由はいくつかある。生来あまり器用な
他者を傷つける技能を磨く、それ自体にも抵抗感が拭えなかった。亡き両親は悲しむだろうし、実際、大切な同居人もいい顔をしないのだ。
その上で少女は撃ち続ける。見据えるのは十五メートルの先、同心円の無機質な的の向こう。
いつか「彼女」を射落とす。そのためならば、どんな不得手も迷いも抱きとめて進めた。
銃声はすぐに八を数えた。薬室の一弾を残して弾倉を
的へと照準を定めて軽く息を止め、人差し指を引くその瞬間、来たるべき反動を予見してしまった。
「っ、」
しまった、と思った時には遅い。撃鉄が落ち、銃声がイヤーマフ越しに鼓膜を打つ。
衝撃を受け流す、その刹那に着弾位置を確認。的に新たな穴は開いていない。おそらく右下の方へ大きく外れた。
何が起きたかは分かっていた。手元の
「――あぁ、まーたジャムったか」
その声はイヤーマフなどものともしない。少女の胸へと直接響き、無遠慮に揺さぶってくる。
スライドを引き、挟まった薬莢を排出してから振り返る。背後の女はちょうどイヤーマフを外すところだった。気怠げに数歩もない距離を詰め、少女の左後ろから大人の手が触れてくる。
「今のは引き金の絞り方が粘りすぎ。あと左腕がどんどん変に力んできてるし、グリップも甘くなってる。
反動に身構えすぎなんだよ、利き腕で撃つのと同じでいい。なんでできないのか、よく分かんないんだけどさあ」
姿勢を矯正される。彼女の髪の何条かが首筋に降りたつ。硝煙の臭いの満ちるなか、バニラの香りが甘ったるく鼻腔を侵し、腹の底で熾火がちりちり弾けた。
背後から乗り出す横顔を一瞥。鼻梁はまっすぐに筋を通し、けぶる睫毛とともに妖しげな魅惑を放っている。しかし瞳は瑞々しさに満ちた若葉色。少女のような桜色の唇も相まって、どこかあどけない印象すら植えつけてきた。
文句のつけようもない美貌だ。三十代も後半、母子ほど歳の離れた相手とは思えない。
ただし年相応でないのは中身も同じ。ひととおり姿勢を正すと身を退き、心から億劫そうに愚痴り出す。
「ガク引きの矯正、ほんっと面倒だなあ……説明して直るもんでもなし、かといって放っといたら悪化するし。こういう世話焼きはイングリットの担当だと思うんだけど。なあフレーゲル」
「……」
少女――フレーゲルは応じない。筆談用の手帳は荷物といっしょに預けていたし、彼女に対して真っ当なコミュニケーションを取る気になれなかった。
左手での射撃を再開する。一発撃つたび筋肉に疲労が蓄積して、手のひらの皮が削れていくのが分かる。かれこれ数十分撃ち続けていた。正直なところもう限界に近い。
だからこそ、とフレーゲルは思う。今閃いた妙案を試すのに、今は絶好の機会だ。
一人用のシューティングレンジは狭い。両腕を広げれば壁に触れてしまいそうなほど。
おまけに地下なものだから蛍光灯頼りで薄暗く、換気扇もあまり回っていないのか硝煙臭さがいつまでも残る。反復作業で摩耗してゆく意識に対して、身体は反動で揺り起こされる。慣れない左撃ちだからなおさらだ。
重なる違和感、徐々にこわばり崩れる構え。
弾倉をいくつも換え、次の反動に「怯えて」トリガーを引いたその時に、また銃がガチリと薬莢を噛んだ。
「あーあ」と女がうんざりしたように息をつく。それからフレーゲルの姿勢を直すべく歩み寄るのだ。先と同じ、射撃しても薬莢が当たらない左後ろへ。
予想通り。鼻先に香る甘い匂いと、今にも触れようとする体温。このふたつを引き金にフレーゲルは薬莢を排出する。
そして一瞬のうちに肘を曲げ、背後へ銃を突きつけた。
(――いける!)
女の華奢な顎が、銃口で軽く持ち上がっている。
零距離。鼓動が逸る。細胞のすべてで叫ぶ。
この女を殺す、と。
粘つく時間感覚。殺意の命じるまま、空気を掻き分けるように引き金を絞り――フレーゲルは心底愉しげな声を聞いた。
「あぁ、ふうん。そゆこと」
聞き慣れた、憎たらしいけらけら笑い。それが時の流れを押し戻した。
銃のグリップごと手を掴まれる。同時に足を払われた。次の瞬間には射撃台に上半身を叩きつけられ、反射的に肘が開いている。撃鉄が落ちたのはその時だ。
発砲。
腕は女の馬鹿力に引かれ、天井の方を向いていた。フレーゲルの指に女の指が重なり、無理矢理引き金を引かされる。大きさの違うふたつの手のなかでワルサーPPが何度も暴れる。
やがて弾が尽き、スライドが開きっぱなしの状態で止まった。
射撃台に伏せたまま呆然としていると、背を鋭く縫いとめる肘から、くっくと愉快そうな震えが伝わる。
「なるほどなあ。自分の射撃下手に、こっちの親切心まで利用したと。成長成長。さぁすが
「……っ!」
罵倒の代わりに鋭く舌を打つ。今回こそは隙を突けたと思ったのに。
一瞬先には銃弾が頭蓋を突き抜け、ぽかんとした顔のまま息絶えるところまで夢想していた。だというのに、今も苦しく背後を見やれば、女はにやにや嫌らしく笑っている。本当に忌々しいったらない。
両親の仇。フレーゲルの声と人生を奪った存在。世界一だいきらいな女。
この女、エレナ・ヴァイスへの殺意を形容するには、いくつ言葉があっても足りなかった。
「で、この後どうなるかは考えてなかった? それとも分かっててやったとか? そんなん誘ってるのと一緒だと思うんだけど」
囁けば、背への圧迫がふっと消える。何が続くかは分かっていた。大人の手がシャツの下へ侵入し、フレーゲルの素肌に指先を滑らせている。
つーっと背筋を撫で上げられる。行き着いた先で肩甲骨の隆起をたどる。
ふつふつと下腹部で湧き上がる恥辱、悔しさ、怒り。殺意の熾火がまた猛る。
(上等……今のうち、いい気になってればいい)
フレーゲルだって、とうに貪られるだけではないのだから。
背を弄ぶエレナの腕に抗い、イヤーマフをずらしながら仰向けになる。
伏せったままの方がまだ胸や唇を守れたが、フレーゲルは防御よりも攻撃を尊ぶ。拘束されていない右手でエレナの首に触れた。
金髪はまっすぐに垂れ下がり、蛍光灯の明かりを透かしている。襟に指を滑らせれば、影からはほの赤い鬱血痕が垣間見えた。
それを上書きするように爪を立てる。エレナの笑みがいっそう深くなる。
「あっはは。そっか、じゃあ謹んでお受けしてやろう。据え膳あるなら遠慮なく、さ」
声音は愉悦に濡れそぼり、不快にフレーゲルの聴覚を覆う。シャツの内を探っていた手が引き抜かれ、しかし油断などしていられない。五指は内腿をなぞりだす。
股はエレナの脚に割り開かれ、閉じて拒むこともできない。ズボンの留め具に指がかかった。何が起こるかは知っている。
怖い。痛い。厭だ。気持ち悪い。
けれど、フレーゲルは。
「……っ!」
それらと引き換えにしてでも、エレナに牙剥くことを選ぶ。
「あー。ほんっと、フレーゲルってさあ……」
なにかを噛み締めるような吐息。その先エレナが何を言おうとしたかは分からない。フレーゲルは力任せに彼女の襟を引き寄せて、すぐに顔も見えなくしてしまったから。力いっぱいに歯を立てようと、白く滑らかで赤い傷だらけの首筋だけに集中していたから。
なにより、この善良な闖入者が、よろよろ重たげに扉を開いたからだ。
「よい、っしょ……大尉、フレーゲルちゃん。私はもう終わったんで、す、けど……」
続きは、上階から漏れ聞こえる
エレナが顔を上げる。そこでフレーゲルも、自分が襟を引く手を緩めていたことに気がつく。開きっぱなしの扉の前には女がいた。淡い茶髪をポニーテールにまとめあげ、眼鏡の向こうで目を瞠る若い女性。
女は無言で微笑むと、細い背で扉を閉めた。
外界の雑音が消える。そうなれば残るのは凍った沈黙と、言い訳のしようがない体勢のエレナとフレーゲルだけ。女の笑みはぴくぴく痙攣し、やがて大きく息を吸う。
「な、ぁに……やってんですかお二人はぁーーーーーーーー!!」
耳をつんざく叫びが、完全防音の空間に反響した。
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