1983年 秋――さよなら少女たち
幕間一
力への意志
その男は、ベルリンという都市に囚われている。
地層のように重なった歴史と、絶えず濁流する流行が絡み合う街。華々しさではパリに劣り、多様性ではニューヨークに劣り、格式高さではロンドンに劣るだろう。
それでも今世紀のヨーロッパが最も深く刻まれ、そして今まさに刻みこまれているのはこの都市であると、男は信じて疑わない。
好きだ、というのは少し違う。憧れや逃避ともきっと。
これは執着だ。どこに行こうと彼はこの都市から逃れられない。ここに刻まれた時のなかには、自分が足掻いて爪立てた傷も残っている。
だから男は、決着をつけにきた。
発展、狂騒、黄金、狂気、瓦礫、復活、分断、自由。
すべてを内包し呑みこんだ、このベルリンに。
「どうぞ」
高く通る声を転がして、女は食卓にティーカップを置いた。
そのまま対面に座る。茶色い髪をポニーテールにした若い娘だ。顔立ちは素朴ながらきっちり整えられ、普段はカフェの給仕でもやっていそうな愛嬌と、夜闇に身を躍らせ消えていきそうな隙のなさがある。
記憶にある姿からはずいぶん印象が変わっていた。それでもところどころに面影がのぞいて、つい目線で追ってしまう。たとえば瞳の色彩、柔らかな輪郭を描く頬、控えめに筋を通した小造りな鼻……
意識が口元へ至ったところで、唇は苦笑のかたちになる。自分がまじまじと彼女の顔を観察していたことにここで気づいた。女はとりなすように肩をすくめる。
「お茶、嫌いですか? コーヒーもありますけど」
「ああ、いや。すまないありがとう。いただくよ」
恥ずかしくてとても言えない。少し感慨に浸っていたんだ、なんて。
誤魔化すように紅茶へ口をつける。彼が通されたのは手狭なダイニングだ。古い型のシステムキッチンが壁の一面を占領して、ただでさえ小ぢんまりとした空間をいっそう小さく見せている。ふたりの向かいあう食卓も窮屈そうに窓辺へ収まっていた。
単身者向けの住まいだ。天井には雨漏りの形跡があり、掃除では取り切れなかったカビの影もあちこち窺える。
家具類は備え付けてあったのだろう、極限まで装飾を排した独特の質素さと補修痕が目についた。逆にティーカップは彼女が持ちこんだらしく洒落たマイセン磁器だ。白磁に群青色の花の意匠が涼やかに映える。これもまた過去の面影。
けれど外は違う。ちらりと傍らの窓を伺えば、夏の眩しい陽射しのもと、向かいの集合住宅の改築工事が進められているところだ。このアパートもほどなく同じ道を辿ると聞いた。その前に来れて、良かったと思う。
「電話でも伝えましたけど……危ないですよ、こんなこと。あなたが危険を冒してやるべきこととは、ちょっと思えないんですけど」
同じく紅茶を飲んでいた女がティーカップを置き、首を傾げる。彼女の言はもっともだ。男の身を案じてくれているのだとも分かる。
だが男は首を横に振った。これは意地、または決意だ。工事の音が響くだけのちいさなダイニングの一角で、男は告げる。
「危険は承知だ。その上で聞きたいんだよ。
俺はあのときの真実の一端しか見ていない。だから知りたいんだ。君たちがこの街でなにをして、なにを思って、なにを願ったのか……君の口から」
一世一代の大告白でもしているような気分だった。もう随分と歳を食ったが、ベルリンという都市の空気は、彼を心燃やしたあの頃へと引き戻してしまうらしい。
女は困った少年でも見るような笑みを浮かべ、優しく問う。
「本にも記事にも、できないと思いますけど?」
「分かってるさ。そのつもりもない」
「あなただって信じてくれるかどうか。そんな荒唐無稽なお話です。それでも?」
「誓うよ。君の話を、俺は一点だって疑わない」
魂を賭けて言い切る。すると鈴を転がすような、愛らしいくすくす笑いが続いた。
女が笑っている。心の底から楽しげに、少女めいた無邪気さで。
しかし切り開かれた口端は鋭く、声音は地の底を震わせ響くよう。契約の言葉を聞いた
ぞわりと背筋が粟立った。しかし後には引けないから、ただ視線を逸らさない。それを見届け、女はふいに席を立った。
「そこまで言われると、袖にするのも気が引けるなあ……」
独り言めいて呟く。その端から部屋の窓を、カーテンで覆っていった。
すべてを照らし明かすような、夏の太陽が遮られる。光はカーテンで柔らかに濾過されて、暗がりがふわりと降りたった。
その中で彼女だけが確かな輪郭を保っている。ポニーテールを揺らして振り向き、唇に指をあてて笑みを浮かべる。悪戯っぽく囁くと、言葉は密やかに溶け消えた。
「分かりました、話しますよ。わたしたちがあの夜、この街で、なにをしたのか」
そう、語りはここからはじまる。
このベルリンを、東ドイツという国を、きっと世界だって揺るがした――不屈と復讐の物語について。
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