あけないよるへとつづくみち<終>
「ウェーバー。あの女性、本当に信用していいのかい?」
カサンドラが逃走し、ヒルダがそれを追ってから、十五分ほどが経過している。
カサンドラが逃げ切った場合、ここに制圧部隊が投入されるのも時間の問題と思えたからだ。その前兆がないか探るのがこの警戒の目的だったが、攻め込まれた場合は何人か切り捨ててでも逃げ切るしかない。
そもそもここにいた反体制派十名は、監視下で作戦を決行するため抱き込んだだけだ。捕らえられてもさほど問題はなかった。
それより悪い事態も考えたが可能性は低い。かすかに聞こえてきた銃声は、ヒルダとカサンドラが交戦した証左だ。だから現実にあり得る事態に対し、こうして気を張っている。
「気になるか?」
「当然じゃないか。今は大事な局面だ、心配なんだよ」
長い付き合いのウェーバーは信頼できても、急に連れてこられた当局の女は信じきれない。無理もない話だった。
だが信用できるできないではない。彼女はこちら側につけなければいけないのだ。特に今は。
「我々の部隊にはな、脛に傷持つエリートが多い。だが少尉の経歴は至ってクリーンだ」
苦笑する。軍で機密に踏みこみすぎたウェーバーと、親類に政治犯を抱え孤児院に送られたカサンドラ。ろくでもない来歴を辿ったという意味では二人は同類だ。
しかしヒルダには、そういった「裏で生きざるを得ない」事情は存在しない。
過去の事件についても、クラスメイトの親類が巻きこまれたというだけだ。ヒルダ個人とは紐付けられていない。でなければそもそも国家保安省からリクルートが来たりはしないだろう。
ウェーバー自身、あの情報で彼女の心を動かせるかは賭けだったのだ。その後の様子を見る限りは有効に働いたらしいが。
「そんな彼女がなぜ特務部隊などに配属されたか分かるか? 向いていたからだ。精神的にも、身体的にも」
話の趣旨がつかめず困惑しているのか、相棒の男は訝しげに眉を下げるばかりだ。幸運なことだろう。ウェーバーが何を恐れていたか、彼にはおそらく理解できない。
「実力と適正だけで特務を任された女など、敵に回したくはない」
吐き捨てる。手袋の内で汗が滲む。その不快さに目を眇めたとき、恐怖の叫びと銃声が夜の
銃を構え、周囲を見回す。制圧部隊の登場か。ならば早急に撤退しなければ――そう身構えるものの、予想していた突撃も一斉攻撃もなかった。
おかしい。制圧部隊が来たのだとしたら、ウェーバーたちに猶予を与えるはずがない。物量で挽き潰そうと銃弾の雨を降らせるだろう。
ほんの少し考えて、様子を見に行こうとハンドサインで相棒に告げる。罠だとしても放置はできない。
迅速に移動を開始。建物の陰を出るごとに襲撃者の痕跡がないか警戒する。悲鳴は敷地の北側――森の奥まった方へ面しているエリア――の巡回を任せた仲間のものだ。
管理棟を曲がったところで人影をふたつ発見、銃を構える。しかしほどなく分かった、味方だ。同じくこちらに気づいた彼らと合流し、手早く現状確認を済ませる。
「悲鳴と銃声が聞こえた。状況は?」
「分からない。お前たちも様子を見に?」
頷く。ここで仲間と出会えたのは僥倖だった。少人数の奇襲は想定外の事態だ、今のうちに方針を伝えなければ。
これを陽動と仮定し警戒に戻ってもらうか、手早く撤退に入らせるか、あるいは状況確認に随行してもらうか……判断の決め手は、再び聞こえてきた銃声だった。
さほど遠くない。「畜生!」と聞こえた次には音階の違う二点バーストが幾多にも連なる。瞬間的に決断、二人へついてくるよう指示し、銃声の方へ駆け寄っていく。
現場に辿りついた頃には終わっていた。第一作業場の陰でひとりが、少し離れたところでもうひとりが息絶えている。片方が不意打ちで
しかし気になることがあった。銃撃戦をしていただろう男の方は、建物の陰に入ったまま死んでいた。
つまり陰から身を乗り出して被弾したわけではない。相手が複数いて側面を突かれたと考えるのが妥当だ。
敵がひとりだとしたら、「銃撃戦の刹那に、相手に気づかれず、確実に射線が取れる位置へ乗り移った」ことになる。そんな芸当、まともな人間なら不可能だろう。
そう、まともな人間なら。
「いったい、何が……」
「構えろ、諸君。最悪の事態だ」
ライフルを構える。四人で陣形を組みなおす。どの暗がりから出てきてもおかしくない。
下唇を噛む。これはまずい。元はといえば自分たちは軍人だ。そうであれと鍛えられた者だ。
飛び抜けた才は必要ない。計画的に養われた体力と持久力、統率された動きが武器。束ねればこそ兵士軍人は本領を発揮する。
ゆえに今の状況は望ましくなかった。二人組を各個撃破され、動ける人員を半数まで減らされている。少ない人員での効果的な警戒のつもりが戦力分散に繋がっていた。これ以上長居はできない。
「このまま作業場に向かって総員に出立を命じる、いいな」
「いいのか? まだ準備は終わっていないはずだ、計画実行に支障が出るぞ」
「計画自体が実行できなくなるよりマシだ」
もとより制圧部隊が来襲するまでには撤退しておきたかったのだ、タイミングとしては適切だろう。状況はそれよりなお悪いが。
「北の二人はどうする? 様子を見に行くか?」
「……いや、おそらく手遅れだ。作業場に直行しよう」
「だが、もし生きてたら……」
ウェーバーの右後ろに位置していた彼が、それを言い切ることはなかった。
たたた、と軽機関銃の三点バースト。頭上から――傍らの第一作業場の、壁の崩れた二階から。
月明かりで分かる。女の影だ。ウェーバーの何より恐れていた事態が、今ここに顕現していた。
銃を向けながら「散れ!」と指示する。次の瞬間浴びせられた弾幕を、女は飛び降りることで回避する。
正気の判断ではない。だが正解だ。これを建物内に隠れてやり過ごせば、ウェーバーが外から牽制している隙に二人が建物内に侵入し、結果多方面からの銃撃を許してしまう。
着地した右手には銃床を畳んだ
拳銃は一度、短機関銃は二度鳴った。どちらも標的の胸部を正確に穿つ。残されたウェーバーは舌打ちして小銃を向ける。銃口とほぼ目鼻の先に女の顔があった。
絶対に仕留める。覚悟を伴った銃弾は、肘打ちが銃身を跳ね上げたことによって、どこか虚空へと消えていった。
女は一歩を踏みだす。もう銃口は届かない。淡いウェーブヘアを揺らす長身は見知ったものだ。
ヒルダ・クロル。
「ウェーバー大尉、あなたは見誤った」
小銃を手放し、両手を挙げる。眉間へ拳銃が突きつけられていた。銃口の深みには弾丸の質量。こちらを見上げる瞳に、廃工場で見た揺らぎはない。
「私は確かに迷っていた。この国の在り方を知ったから。けれど、だからといって壊したいわけじゃない」
告げると、逆光気味の顔に変化が生じた。
唇が三日月型に割れ開く。眉がゆるやかな谷を描く。ヒルダは表情の薄い女だ。だから不器用に作られたその表情を、はじめは笑顔と認識できなかった。
そしていったん認識してしまえば、見えてしまう。頬の紅潮に、呼吸の震えに、眼光の艶やかさにぞろりと蠢く――甘やかな恍惚が。
「私は愛している。不便で不条理で息苦しくて、けど穏やかに生きていけるDDRの日常を。そこに生きる人々を。
そして分かった。この国で認められなかった人々は、西に居場所があるかもしれない。でも、
歪んだ愛国に歪んだ笑みを浮かべる。こんな女をウェーバーは知らない。推察できるのはひとつ。廃工場での会話から今この時へ至るまでに「何か」があった。
カサンドラ。
彼女との相対が、ヒルダに変革をもたらしたのだ。
「この国に守る価値はある。ただひとりでもいい、そう思わせてくれるひとを、私は探していただけだった……」
心底愛おしそうに微笑む。情動は癌細胞のように肥大してゆくのに、姿勢にも銃口にも一切の乱れはない。そのさまは逆に無機質にさえ見えた。少しでも隙を見つけられないかと、あがく。
「……我々を殺して何も変わらないと言っても?」
「ええ」
「いくらか時間はかかっても、大きなきっかけがあれば民衆はDDRに異を唱えるだろう。それでもか?」
「この国でしか救えないものがあるなら」
問答は明快だった。ウェーバーの予想する崩壊を、ヒルダは平然と受け入れる。その上でこの国を守ると嘯く。
この国は正しい、そんな盲目ならば救いがあった。この国は間違っている、そんな不満ならばありふれていた。多くの国民はそのはざまで折り合いをつけ、そうでない人々は両極へと突き進む。それだけなのだから。
だがこの女は違う。正しいだとか間違っているだとか、そういう次元ではない。
国際関係の均衡、現実的な利害、愉快犯的な享楽主義……こんな話ですら彼女には無縁だろう。
『誤っているからこそ、
欲情のような慈愛でもって、目の前の生きものはそう断じているのだ。
「――呪われろ、
こんな存在を、守るべき民衆たちへ解き放ってはいけない。
使命感はあらゆる恐怖を凌駕した。銃口の呪縛を振り切って一歩を退がる。腰の拳銃に触れる。
しかし、「褒め言葉ありがとう」という言葉とともに、聞き慣れた銃声が眼前で弾けた。脳髄を串刺す激痛、次いで包みこむような睡魔。五感がじわじわと遠のき、消えてゆく。
底のない夜。
それが、ウェーバーの最期に認識したものだった。
***
今なら分かる。彼女が「カサンドラ」を名乗る理由が。
彼女はきっと、自分を信じてほしくなどなかったのだ。自身を正当化するためには密告し続けるしかないから、けれど本当は同じことを繰り返したくなかったから。
みなが自分の語る真実を疑い、切り捨て、何も変わらないままでいてほしかった。太陽に愛され見棄てられた王女のように。
けれどそんなことは関係ない。
ヒルダには、関係ないのだ。
「カサンドラ」
名を呼ぶ。廃工場で作業していた
カサンドラは敷地を出たところの木陰に潜んでいた。こわごわと踏みだす。周囲とヒルダを警戒しつつも、ウェーバーたちの遺体からは顔を背けていた。
思わず目尻が緩んでしまう。彼女は恐れなくていい。もう何も。
弾切れのPM-63を投げ棄て、マカロフをホルスターに戻して歩み寄る。
降り注ぐ月光を遮り手を差し伸べる。言うべきことは決まっていた。
「この国を守ろう。この国でしか生きられない人たちのために」
あなたのような咎人が、己の罪を見据えずにいられる闇夜を。
変わりゆく世界の流れに逆らい、まどろみ続ける揺りかごを。
ここでしか守れないものがある。だから彼女と征く。たとえその道がどんな嘘と背徳に満ちていても、正義という名で舗装しよう。
彼女のような人々は、そうすることでしか救われないのだから。
カサンドラの瞳には怯えと疑い、しかし瞬きを繰り返すたび薄れてゆく。
やがて最後に現れたのは、皮を剥かれた果実のような、無防備な少女の顔だ。ヒルダからもう目を逸らさない。
「……ヒルダは、正しいひとなのね」
「きみといる以上は、きっと」
「信じて、いい?」
「きみのようなひとが信じられない私に、意味はないから」
問答の果てで、カサンドラは小さく微笑んだ。
張りつめた弓のようだった眉を下げ、口端は柔く綻ぶ。目元には安堵と歓びが滲んだ。泣き笑いじみたその表情は、ヒルダにはじめて見せる、本物の笑顔だった。
幼い指が女の手に重なる。腕を伸ばしてヒルダの頬に触れる。
離れた手のひらには、未だ乾かぬ返り血が共有されていた。唇が触れそうな距離で、囁く。
「なら――いいよ、信じてあげる。
ずっとだよ? 守ろう。この国を、いっしょに」
「ええ。ずっと、一緒だ」
抱きあう。死体の群の中心で。折れそうな体躯を腕に閉じこめると、少女の甘い匂いが香る。黒髪はもう光を灯さず、真夜中の闇に濡れていた。
手を繋ぎ、彼女をこの場へ連れてきたであろう本部の使者の車へ向かう。
月は翳り森は何より昏い。ゆえに、もう二度と迷わない。
――そう、たとえいつか、
何も変わらない。ヒルダは守り続ける。最後の東ドイツ国民となるだろう彼女を。
目を隠し、耳を塞ぎ、ともに銃を携えて、罪を照らす光などない最果てで。
カサンドラを救うためだけの
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