あけないよるへとつづくみち⑦

 少女は、家族を信じていた。


 父は人民警察フォーポの警官で、母は工場で表彰もされた立派な労働者だ。歳の離れた姉は大学に通い、社会主義の何たるかを勉強している。

 誇らしかった。家族のようになりたくて、少女は常に励んでいた。


 だが1976年――8歳のとき。DDRを批判する歌手ヴォルフ・ビアマンが国外追放された。教師はこれを当然と語り、彼の煽動的な曲など国家の害と言い切った。

 だから驚いたのだ。ビアマンの曲のテープが家の壁にいくつも隠されていて、父や姉はそれをばらまこうとしていて、国外追放に反対する署名を集めようとしている。そんなふたりの密談を、少女は聞いてしまったから。


 一晩悩んで、決めた。父や姉にそんなことをさせてはいけない。誰かに止めてもらって、二人の目を覚まさなければ。


 運がいいことに、翌日の学校では催しがあった。地域の代表党員が国家への忠誠について講演する。

 それを聞くうちにも使命感は募り、催しが終わったその足で党員のもとへ駆け寄った。


 カセットテープを見せ父や姉の計画を話すと、党員はひどく驚いた。神妙な顔で少女を早退させ、車に乗せて大きな建物へ連れていく。

 殺風景な部屋で大人に囲まれ、いくつも質問に答え、下校時間に重なるよう帰された。「今日のことは内緒だよ」と言われたので従った。「大丈夫だよ」とも言われたので安心した。数日後、父と姉が逮捕されるなどと思いもせずに。


 お父さんとお姉ちゃんを止めてってお願いしただけのに、逮捕してなんて言ってないのに。そう警官へ泣きついたときの、家族の瞳が忘れられない。


 驚愕でもなく、失望でもなく。

 どうしてこんな愚かなことをと、理解できないものに問いかけるだけの眼。


 父と姉は帰ってこなかった。やがて有罪が決まり、刑務所に入れられた。

 母は少女の方を見なくなった。やがて仕事に行けなくなり、まともに家事もできなくなった。

 少女は孤児院に行くことになった。家族が壊れるまで一年とない。けれどその胸には、ただひとつの想いがあった。


 ――自分は間違っていない。


 少女は家族を、その正しさを信じた。けれど裏切られた。

 ならば悪いのは家族で、彼らを告発した自分と、彼らを逮捕した国家こそが正しい……少女に残されたのは、それだけの盲信だった。


 密告した。学友が意味も分からず唱える風刺の小噺アネクドートを、孤児院の女子が禁止書籍を読もうとしていることを、仲良くなった年上の男子が隠れて西のテレビを見ていることを。

 これらは報われた。君こそ真の愛国者だと、手を差し伸べられたのだ。


 極秘の施設に移り、厳しい訓練を積み、弱音などひとつも吐かなかった。代わりに愚痴や泣き言はすべて密告した。褒めてもらえた。やがて選抜され、特殊部隊への配属とその動向の監視を任される。


 少女はずっと正しかった。ならばずっと繰り返す。騙して探って暴いて、密告して密告して密告して――証明し続けるのだ。DDRの言う正しさを、自分こそが為せていると。


 カサンドラ。

 悲劇の王女の予言のように、少女は一度たりともあやまたない。


***


「わたし――わたし間違ってない! なのになんで!? なんでそんな眼で見るの!」


 夜色の髪を乱し、カサンドラは泣きじゃくる。

 そこに予言者を名乗る不遜はない。月光に涙を散らし、木陰の暗がりに輪郭を融かされ、ヒルダを振り払おうと未発達の手足であがく、ただの少女だ。


「わたしは正しいことしかしてない! 悪いあなたたちがいけないんだ! 正しい顔なんてしないでよ、あなたが間違ってるって認めてよ!」


 叫びながら、カサンドラの表情がくしゃりと歪む。泣き顔に傷痕が滲む。

 嗚咽の隙から漏れる声は、救いを求めるように空っぽだった。


「だって、でないと、わたしが間違ってることになるじゃない――」


 掠れた囁きは風に散っていく。彼女の過去をヒルダは知らない。なぜ自分の視線に怯えるのかも。しかしもっと深いところ、彼女の根源にある感情は理解できた。


 罪悪感。そこから目を逸らそうとする自己防衛。

 逃れ続けて走り続けて、こんな極北に辿りついてしまった。


 少女は進み続けるしかない。正しいと認めてもらわなければ、彼女は忌むべき密告者、ただの罪人なのだから。DDRの正義だけがカサンドラを受け入れる。


 彼女は、この国でしか救われない。

 彼女は、この国でしか肯定されない。

 彼女は、この国でなければ許されないのだ。


「……ああ、そうか」


 ぽろぽろと涙する少女を見つめながら、呟く。

 守りたいものがあった。ずっと迷っていた。けれど今はすべてが自明だ。胸からおもりが落ち、視界がすっと晴れていく。逸る鼓動が告げている。


 ――目の前の彼女こそが、答え。


 湧き上がる確信と高揚の命じるまま、ヒルダは銃把を握った。

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