あけないよるへとつづくみち⑥
不思議なことに、カサンドラはそれ以上撃とうとはしなかった。
銃口を向けられると同時に両手を挙げ、抵抗の意思がないことを示す。ワルサーPPKを奪われ、窓から工場内に引きずり上げられても文句ひとつ言わなかった。
並み居る大人たちに囲まれて出てきたのは、どこか誇るような言葉だ。
「……ウェーバー大尉、これでいいんですよね?」
汚れた床にぺたりと座り、ウェーバーを見上げる。
ヒルダによって背で両手を組まされていることへ苦痛も見せない。未熟な妖艶さすら孕み、ねだるような笑みを浮かべて周囲を嘲る。
「私、指示通りにしましたよ。ねえ、こんな国賊、早くやっつけちゃいましょうよ」
「ウェーバー、お前……心まで
声を荒げるのは軍の出身者のひとりだ。ヒルダを迎え入れることに疑問を呈した男。
周囲の制止もよそにウェーバーの胸ぐらを掴み上げ、唾を散らして詰め寄る。その顔は憤怒に染まっていた。
「だから俺は言ったんだ、潜入とはいえ国家保安省の狗になった奴なぞ信じられんと! 案の定だよ、よくも騙してくれたものだな!」
男の怒りが高まるにつれ、静かな混乱が広がっていく。ウェーバーは敵なのか味方なのか。その天秤が揺れ惑い、波紋を広げては結束を切り崩していく。
ヒルダは確信していた。これはカサンドラの虚言だ。でなければヒルダにも事前に知らされている。
だが動けない。彼の疑いを晴らそうとすれば、カサンドラの前で離反を示すことになる。そうなれば立派な裏切り者だ。
今更それを躊躇うのは、国家保安省への恐れゆえだろうか。
「我々のトップをしていたのも全部このための布石だ。今のうちに切り離しておかないと……」
「ああ、なるほど」
剣幕にも動じず、淡々と呟く。
ウェーバーは顔色を一切変えない。ただ困ったように、あるいは愉快そうに整えられた髭を掻いて苦笑する。
「このタイミングでこの任務、心配ではあったんだ。隙を見せて我々の動きを誘っているのかとな。だが慢心もしていた。密偵がいるならわざわざ今回を待つまでもない、とうに検挙されているはずだと」
「お前、何を……」
「君か、本部の狗は」
そう告げると同時、また銃声が響いた。
呻きをあげて倒れる男。その肩口から溢れていく鮮血。拳銃を丁寧にホルスターに戻し、ウェーバーは残念そうな表情を造って息をつく。
「カサンドラを使って私を疑わせて同士討ち、私は殉死……こんなシナリオだったのだろうが、そう甘くはいかん」
しんと静まりかえった空間に、彼の声だけが響いた。
そのまま止血を施して男の両手首を背後で縛る。そうして立ち上がると、凍りついた聴衆へ朗々と告げた。
「確定だ、国家保安省はもう我々に目をつけている。決起するなら今をおいて他にない」
それは意識の空白へと刻みこまれる訓示。あの男が本当に国家保安省の手先かどうか確証はない。だが、「そういうこと」にするしかないのだ。
「正義を為そう。この国の民に、夜明けを」
ウェーバーは選んだ。この局面で彼らを統率するために、手段は選ばないことを。
「――ちっ!」
ウェーバーに気を取られていたからか、あるいは知らず手心を加えていたのか。思いがけず暴れたカサンドラに、拘束の手を放してしまった。
駆け出す少女。理解の追いつかない事態が立て続けに生じ、誰もカサンドラに反応できない。あっけなく脱出を許してしまう。一番最初に動けたのがヒルダだった。
廃工場を出て周囲を見回す。
待って。そう手を伸ばすように、ヒルダは足を踏みだしていた。
***
星月は雲に隠れては姿を現し、木々の影は風に揺れる。絶えず陰影を変えて幻惑するこの森は、まるで不条理な迷宮だった。
いや、これももしかすると、ヒルダの揺れ惑う心のあらわれなのかもしれない。森はただの木の集まり。カサンドラにはそう見えているはずで、ゆえに彼女は理解している。ただ走るだけでヒルダを撒くことはできないと。
息を殺しての逃走か、不意を突いての闘争か。カサンドラの突破口はふたつにひとつだ。
「……」
呼吸を止め、周囲を探る。冷たい風と乾いた植物の匂い。少女はその中に身を潜めている。
廃工場からはずいぶん離れたが、カサンドラはむしろ森の奥、ヒルダらが来たのとは逆の方角へ向かっていた。
おそらく彼女はそちらから来たのだ。駐車可能な場所は遠いはず、足止めにはまだ間に合う。
――足止め、か。
自嘲する。なぜカサンドラを追うのか、ヒルダ自身にも分からない。
むろん、ウェーバーに賛同するなら彼女は邪魔だ。逃がして本部に情報を渡すわけにはいかない。
だがあの場で彼女の虚言を主張できなかった自分にそんな資格があるだろうか。そもそも自分はどうしたいのだろう。
『この国に守る価値などない』
あの言葉に、頷けなかったのは。
わからない。なにも。目の前の迷路は歪み続けて、道筋すら見えなくなっていく。その頬を張るかのように、火薬の爆ぜる音が耳朶を打った。
銃声だ。カサンドラのもの。廃工場で拳銃は取り上げたはずなのに、なぜだか確信に近いものがあった。
ヒルダを誘っている。
澄んだ大気を吸い、歩みを再開させた。マカロフは両手で保持したまま。大丈夫、進める。
冷静になれば分かる。月の明るい夜、ろくに人の手が入っていない森だ。誰かが踏み入れば草は垂れるし藪は乱れる。今の発砲のマズルフラッシュもかすかに見えた。これらも込みでカサンドラの策なのだろうか。
構わない。ヒルダは少女の
仕掛けてきた――銃弾が穿たれた方向とは逆の幹に身を隠し、続いた七発に三発返す。ほぼ
その後は静寂。慎重に半身を晒し、追撃がないことを確認してから幹の弾痕を細かく確認。サイレンサーは衝撃波を拡散させて減音する装置なので、銃声そのものが消えることはない。だがそのぶん音の聞こえてきた方角が不確かになる。頼りになるのは銃弾の射入角くらいだ。
あとは木の配置から射線を割り出し、そちらへ向かう。十メートルほど進むとなにか固いものを踏んだ。
小石と違って角がなく、無抵抗に靴の底で転がる。足を止めて屈んだ次の瞬間、頭上を銃弾が通過していた。
近場の木の影に飛びこみ、今度は二発返礼。応酬がまた途切れ、やがて乾いた葉を踏む音が続く。
拾いものは空薬莢だった。底には5.45×18の刻印がある。最初の八発は無駄撃ちにも取れたが、どうやら可能な限り薬莢を撒き、ここでヒルダの気を惹いたところを狙う算段だったらしい。
聡い子だ。となれば、次も何か仕掛けてくる。
それを理解しながら、ヒルダはまた彼女の射線を辿る。雑草の根元を落ち葉が埋めるようになり、分厚い絨毯を踏んでいる気分になる。そこでいったん頭上を仰ぎかけて、
分かる。カサンドラは、もうほど近くにいる。
一歩。研ぎ澄まされた敵意に大気が軋む。
一歩。ぴんと張りつめた見えない糸が木陰に巡る。
一歩。確信があった。あと一歩、糸に触れれば、彼女は動く。
ゆえにヒルダは足を止め――横合いに飛びこんで道を外れた。
「っ!」
明確な動揺の気配。落葉しきった木のあいだを身を屈めて走る。
そうして適当な地面へ銃弾を放てば、焦り気味の銃声が返ってきた。着弾位置は分からない。ここは駄目だ、移動する。
飛び出した場所から大きく円を描くように駆ける。もう一度地面へ撃つと、反撃が五メートルほど先の幹に着弾した。距離は縮まっている。サイレンサーで
類推した方向に意識を集中させ、三度目の試し撃ち。銃声が返ると同時に見えた。木立の陰のあいだ、二〇メートルほど離れた一点で、小さな火の花が弾けて散る。
――マズルフラッシュ。
サイレンサーで抑えられてはいたが、視界に入れば明らかだ。弾倉を取り替え、今度は足音を殺して歩み寄る。秒ごとに緊張感が引き絞られていくのがわかった。
雲のベールが晴れていく。月光がひときわ明るく森を照らす。
目標まであと五メートル。明後日の方向に石を投げると同時にヒルダは駆けだす。浮かびあがる少女の影へと手を伸ばし、跳躍した。
「な――っ!?」
驚愕は、聞き慣れたカサンドラの声だ。太い枝の上に立っていたのに急に足首を掴まれたなら、確かに驚きもするだろう。そのまま地上へと引き寄せる。
「機転は評価する。でも、基礎は大事にしたほうがいい」
銃選び、照準の合わせ方、反動の逃がし方……射撃に不可欠な要素は色々とあるが、体勢の安定感もそのひとつだ。
不安定で踏ん張りもきかない。少しでも体勢を崩せば撃つことすらままならなくなる。連射などもってのほか。
そんな木の上を足場に選んだ彼女は、訓練場での成績は悪くなくとも、あまりいい射撃手といえなかった。
「いっ、ぁあっ!」
悲鳴のような声をあげ、少女は落下の衝撃をもろに食らう。不意に引きずり下ろされたのだから当然だ。受け身も取れず、落ち葉の上で動けないまま痛みに呻く。そこへヒルダは油断なく銃を突きつけた。
掛け値なしに思う。彼女はよくやった。
最初は地面に残した痕跡。次に落とした空薬莢、さらに落ち葉を踏む足音。下へ下へと意識を導き、頭上への警戒を疎かにする。相手は背の低い子どもという先入観も有効に働いた。本当に聡い子だ。
だが足元への注目は裏目にも出た。落ち葉の密度が増すことで、広葉樹が多いエリアへ誘導されていることを気づかせてしまう。その目的を逆算すれば、「太い枝がある樹上からの強襲」には容易に辿りつけた。
「きみは頑張ったと思う。大人しくしてなさい」
「こ、のっ!」
カサンドラを組み敷こうと屈めば、足が顔面を狙って飛んでくる。首を軽く傾けて足首を捕まえ、同時に後ろへ倒れこんだ。
喉元があった場所に銃口が突きつけられる。そのフォルムを目に焼き付け、脚を真上へ蹴り上げた。
「っ!」
少女の両手から弾き飛ばされ、銃は夜の帳へ姿を消した。
そのまま脚を振り下ろして薄い胸を踵で一撃。瞬間的に呼吸機能を絶たれ喘ぐその間に、ヒルダはマウントへと乗り上げ、少女の細い両手首を握る。
彼女の銃には覚えがあった。小型自動拳銃PSM。上級将校や特殊人員に配備される、薄く小さなソ連製の銃だ。
空薬莢から想定はしていたが確定した。これを持たされているということは、やはり彼女は本部の命で動いている。己の命まで賭けて。
少女がここまでする理由は、なんなのだろう。
「いや……放してよ裏切り者、放せっ!」
木肌で擦ったのだろう、頬や手のひらに血を滲ませてカサンドラは叫ぶ。
羽交い締めにされた腕を滅茶苦茶に動かそうとし、ひっくり返った昆虫よろしく脚を空転させて抵抗する。それが無力であることなど自身が一番分かっているだろう。すでに彼女は詰んでいた。
だがヒルダは彼女を殺す気にも、あるいはウェーバーへ引き渡す気にもなれずにいる。
衝動は胸を絞るように
「――まだあの時の答えを聞いてない」
ここで、カサンドラの瞳がようやくヒルダを捉えた。
よほど虚を衝かれたのだろう。暴れることも忘れ忙しない瞬きを繰り返す。肩で息をしながら、戸惑い気味に唇を開いた。
「なんの、話……」
「なぜ、きみはこんなことをしてる?」
言いながら、鼻先の触れあう距離まで顔を寄せる。地面ではヒルダの髪が彼女の夜色の髪に降り立っている。
そこに答えがあるような気がした。浅く早い少女の吐息に、
「忠誠心から? 優越感から? 利己心から? それとも他の何かから……教えて、カサンドラ」
「や……」
問いを呼吸するにつれ、瞳は揺れ惑う。そのたび少女の奥底が引きずりだされてゆく。驕慢は砕け、敵意はひび割れ、怒りは擦り削られた。
やがてカサンドラはきつく目を閉じる。そして抵抗を再開するのだが、身をよじっては首を振るその様は、暴れるというより怯えているようだ。裏返りかけた声が叫ぶ。
「やめてよ……やめて! そんな眼で見ないで!」
「お願いカサンドラ、答えて」
「うるさい! 見るな、見るな!」
絶やさない問い。拒絶はほどなく擦り切れて涙混じりに変わっていく。雫をこぼしながら一瞬だけ視界が開く。
潤み融け崩れた意識は、ヒルダでも夜の森でもない、遠いだれかへと向けられていた。
「お父さんも、お姉ちゃんもお母さんも! 消えてよいなくなってよ、わたしを見ないでよ――!!」
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