あけないよるへとつづくみち⑤

 二週間は、思いのほか早く過ぎ去った。


 小型トラックムルティカーを停めたのはポツダム州のとある森林だ。鬱蒼と茂る木々は月灯りでも照らしきれず、むしろ半端な光で陰鬱なコントラストを生んでいる。

 奥には空襲を受けて打ち捨てられたナチス時代の廃工場があるはず。事前情報によれば、今回のターゲットらはそこに集っているらしい。


「連中は今頃会合と洒落こんでいるだろう。想定人数は十程度。君と私がいれば敵ではないが、油断するなよ」

「了解です」


 短く応じてMPi-KM小銃の初弾を装填、安全装置をかけた状態で小脇に抱える。

 腰のホルスターには同じく準備を整えたマカロフがあった。廃工場はまだ先だが、警戒しておくに越したことはない。

 今回訪れたのはヒルダとウェーバーの二人だけだ。本当なら人数で圧倒したいところだが、相手はただの労働者、武装しているとしても知れていた。ウェーバーも軍で鍛えられている。よほどでなければ相手にならない。


 澄んだ冷気を呼吸して、枯れ草を鳴らさないよう進む。夜空を衝く針葉樹が、いずれきたる雪を待って沈黙している。地図代わりの航空写真を頭に入れておいてよかった。辿る道筋は迷路のようだ。


 その言葉に意識が沈む。迷路。まるで近ごろの心の具現化だ。

 道しるべを失い、暗闇のなか彷徨い続ける。言われるがままに足を踏みだし、そのこと自体にまた迷う。


 ――カサンドラなら、迷わないのだろうか。


 やがて小さな明かりが木立の合間にのぞく。月でも星でもない、人工の光だ。

 慎重に距離をつめていけば、レンガ造りの無骨な建物群が見えてきた。多くは屋根が落ち、壁が崩れ、半壊している。しかしひっそりと明かりを漏らす低層建築には大きな損傷もなく、比較的形を保っていた。


 あそこだ。ウェーバーと無言でうなずき合い、音をもらさず近づいていく。見たところ周囲に警戒用のトラップを仕込んでいる様子もない。本当に素人だ。

 これならすぐに終わらせて帰ればいい。その確信のもと、コンクリートで舗装された敷地に侵入し、平らな建物の入り口脇へ張り付く。


 そこでウェーバーの腕がヒルダを遮った。いつの間にか彼のライフルは手ではなく、肩に提げられている。


「少尉。中に踏み入っても、発砲はしばらく待て」

「はい? しかし……」

「命令だ。いいな」


 意味が分からない。踏みこみ次第ライフルを掃射し機先を制する、そういう手筈だったのに。


 しかしこの場で騒ぎ立てることはできない。「了解」とだけ囁いて構えを解く。それを見やると、大きな背は気負いのひとつも見せず、工場の扉を開け放った。

 唖然とするヒルダをよそに、ウェーバーは屋内に足を踏み入れる。どよめきが工場を満たすが警戒にまでは至らない。親しげな声がまず先手を打ったからだ。


「お疲れ様です、ウェーバーさん。手筈通りですね」

「首尾は?」

「上々です。彼らも協力的ですし」

「結構だ……少尉、入ってきなさい」


 未だ入り口の脇に隠れていたヒルダを呼ぶ。しばし逡巡したが従った。


 中はかつての作業場らしい。だだっ広いコンクリ造りの空間に、摩耗した柱や錆びた鉄骨が立ち並んでいる。

 窓もいくらか割れているから体感温度は外気とほとんど相違ない。あらゆる機械が取り払われ、その代わりとでも言うかのように、銃器があちこちに転がっていた。


 人数は十どころではない。視界に入る限りでは十九人。

 想定の倍近い「敵」が、敵意と恐れを宿してヒルダを見つめている。その視線を遮るよう、ウェーバーの背が肩をすくめた。


「ああ、問題ない、彼女も引き込む。少し時間をくれ」

「おい、いいのか本当に……」

「大丈夫だ、信じよう。みんな、ウェーバーさんに任せて準備に戻れ」


 眉間を歪めた男に手を振り、ウェーバーに語りかけていた男が指示を飛ばす。それに即座に反応するのが半分、残りは戸惑いながら流される。同じグループとは思えないほどの練度の差だ。

 たまらず問う。この状況は、いったい。


「……ウェーバー大尉、これは」

「歓迎しよう少尉。監視国家へ反旗を翻す、ここがその最前線だ」


 上司は片頬を歪める。問いを受け付けない笑み。

 背後で扉の閉じる音がして、ヒルダはゆっくりと両手を挙げた。


 ***


「53年、56年、68年、76年、そして昨年の80年……東欧で何が起こった年か分かるか、少尉」


 そう問われたのは、MPi-KMだけ取り上げられ、作業場を見渡すことのできる中二階に案内されてすぐのことだ。

 階下では「反体制派」の面々が忙しなく動き回っていた。時折訝しげにヒルダを見上げ、背に不安を滲ませる。


 答えはすぐに出てきた。いつでもホルスターから拳銃を抜けるようにしながら応じる。


「……ベルリンの暴動、ポーゼンとブダペストの暴動、チェコスロバキアの反共政権、ビアマン国外追放へのバッシング、『連帯』の結成……どれも反動勢力による謀略と認識していますが」

「そう言い繕わなくていい。正確な表現はこうだろう? 『自由を求めた人々に対する、当局の弾圧』」


 国家保安省シュタージ将校のものとは思えない言葉を吐き、皮肉げな笑みを浮かべる。それは何より大きな説得力でひとつの事実を告げていた。


 ――ウェーバーは、反体制派と繋がっている。


 だが無条件に目の前の事態を信じることはできない。作戦の一環かもしれないし、何よりヒルダへの罠の可能性もある。カサンドラのこともあるのだ。状況は正確に見極めなければ。

 警戒心に気づいたのだろうか、ウェーバーは弱ったように苦笑する。筋肉質な背を手すりに預け、胸ポケットから煙草を取り出した。火を点けながら呟く。


「君に手紙を送ったのは、私だ」


 たった一手で、思考の半分近くが凍った。


 理解が追いつかない。ゆえに直感が先行する。手紙。いまこれが意味するものはひとつしかない。


「見て分かっただろうが、あれは極秘資料だ。危険を冒して君に真実を伝えた。

 誠意を示したつもりだよ。それで過敏になった君がカサンドラに疑われたのは、申し訳なかったが」

「……彼女の本来の標的は、私ではなかったと?」

「というより、具体的な標的の指示はなかったのだろう。彼女を疑う君が彼女に疑われるのも道理だ」


 つまり、カサンドラを警戒することでとんだ藪蛇を生んでいたようだ。となるとヒルダが真相を知ったことも国家保安省には露見していない可能性が高い。

 だが安堵している暇はなかった。今この状況が不可解なことには変わりない。


「……ひとつ聞かせてください。放置しておけば、あの子は早合点して私が裏切り者と上に通告したはず。私を生贄スケープゴートにしなかったのはなぜです」

「簡単だとも。君は上に差し出すには惜しい」


 鉄板の床に灰を落とし、ウェーバーは茶目っ気を含んで口端を上げる。見慣れた上司の顔だった。


「国家保安省も何らかの裏切り行為には勘づいている。しかし確証もなければ、誰が関わっているかも分かっていない。でなければこんな探りを入れる真似はせんよ。今のうちなら、まだ動ける」

「楽観的に過ぎるのでは。探りを入れる程度には疑われているのでしょう」

「悲観的だな、優秀だ。ならば言い方を変えよう。動くなら今しかない」


 話をひっくり返すその口調は、手品師かなにかのようだ。紫煙を吐きながら種を明かしていく。


「他の部隊が米国の工作員を『連帯』ともども処理した話はしたな? どうもこの一件が『連帯』の一部と西が繋がっている状況証拠になったらしい。

 このままではソ連が武力介入に出るのではないかと……まあ、少なくともポーランド政府の側は気を揉んでいる」

「つまり?」

「『連帯』は早晩非合法化される。そうなってからでは遅いのだよ。臆病なDDRの民衆を、この動きに乗せて立ち上がらせるには」


 言いながら、ウェーバーは階下に目を投げた。きびきび立ち回る鍛えられた男たちと、彼らに指示され動く若い男女。ウェーバーが視線で示すのは、前者だ。


「彼らはみな国家人民軍NVA出身者でね、私と心を同じくする同志だ。国の有様に心痛めている。だから米国工作員という後ろ盾を失った反体制派と手を携えた。国民を麻酔から呼び起こすために」


 そこでようやく、今の状況にも理解が及んだ。

 ウェーバーは軍の出身者を中心にポーランド同様、いやそれ以上に大きな蜂起を計画していた。しかし事態がのっぴきならなくなってきたため、処理を命じられた反体制派を取りこんだのだ。任務に赴くふりをして、この決起を実現させるために。


 彼はやる気だ。ここから先は力尽くで、国民に呼びかけるだけ。


「当局の警戒は増すばかり。否を唱える者は出国させられ、西側も頼れない。ここで誰かが立ち上がり党を糾弾しない限り、人民は囚われたままだ。

 我々は失敗してもいい。国民の前で決起し、その心に火を灯せれば。内からで殴りかかってはじめてこの檻は壊れる。君も痛いほど分かっているだろう」


 無骨な指が、煙草を弾いた。

 低い放物線を描き、煙と灰を散らし、足場の鉄板に落ちていく。それだけの光景が目に焼きついた。きっと同時に放たれたウェーバーの言葉のせいだ。舌打つように吐き捨てる。


「民を縛り、監視し、飼い殺す――この国に守る価値などない」


 燻り続ける吸い殻。蛍光灯でも照らしきれない暗がりで燃え続け、やがて窒息して消えるだろう。それを見つめつづけて、頭蓋で自身の声がリフレインした。


 『この国に守る価値はあるだろうか』。

 絶えず自問し続けてきたその問いに、ウェーバーは否と告げている。


 ヒルダも知っている。体制は国民を抑圧していた。平等と互助の精神も、ヒルダの愛した平和も、窮屈で不便でしかし穏やかな日々も、その上にこそ成り立っている。

 ならばすべて、壊れてしまうべきなのだろうか。


「私は……」


 その先の言葉を探そうとして、空気が震えるのを感じた。

 反射的に屈む。ウェーバーが戸惑うのが肌で伝わる。彼が何かを言うより先に、あまりに聞き慣れた音が廃工場に反響した。


 ――銃声。


 北側にいた男が倒れる。割れていた窓のほど近くだ。広がる血だまりに比例して恐慌の前兆が大気を満たし、ヒルダは中二階から飛び降りた。

 マカロフを抜く。射線に入らないよう駆けぬけて死体を乗り越える。北の壁に張りつき、銃とともに窓へ相対した。


 割れたガラスの向こう。肩で息をし、銃口から硝煙を昇らせるのは、夜色の髪をした少女だ。唇は知らずその名を刻んでいる。


「……カサンドラ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る