第六十九話
ミリアム・フリックは、近ごろ運が良い。
数年前に大都会ベルリンでの職が得られたことにはじまり、半年ほど前には結婚もしていないのに都心の立派なアパートを宛てがわれた。まさかの家庭電話が手に入ったのも最高だ。あと六、七年は待つだろうと覚悟していたトラバントに至っては先月納車されたばかりである。
ここ最近いいこと尽くしだ。ちょっと怖いくらいに。
いつか揺り戻しがきそうな、ぼんやりした不安を飼っている。
結果的にその予感は正しかった。月曜の午後、華の休日であるはずのその脚で、目抜き通りウンター・デン・リンデンを行き来する。
三度目の往復を終えた今、やっと現実が理解できてきた。フンボルト大学脇の狭い歩道に入ってがっくり肩を落とす。
「おっかしいなあ、どこで落としたんだろ……」
どうやらここでもないらしい。自宅近くの道にもなかったので、徒歩の通勤路ではないということになる。
とすると毎朝使っている地下鉄か、それとも一昨日寄った
ミリアムが自身の
すべてのポケットを裏返しても鞄を逆さにしても部屋中ひっくり返しても出てこない。正午になるころ「外で落とした」という結論に辿りつき、こうして勤務地近くまで繰り出してきた。
しかし今にして思うと、そもそもいつ落としたのかが分からない。最後に提示したのは一週間ほど前だ。そこまでの行動範囲を総ざらいするなど不可能に近かった。
いや、もしかすると職場に落ちていて、行けばあっさり見つかるのかもしれない。だが気が進まなかった。多分あそこにはないだろうと根拠なく片付けて、道端で嘆く。
「あーあ、最近は運が向いてきたーって思ったのに、もー……」
自分が少々抜けている自覚はある。だからこの手のトラブルも多いのだが、さすがに身分証を失くすのは初めてだった。
近くの
この場合、臨時に
とりあえず駅にでも行ってみるか……そう建物の壁から背を浮かせようとすると、横あいから服の裾を引かれた。
「うん?」
目を向ける。傍らにはいつの間にか
知らない子だ。迷子にしては少々大きい。どうしたの、と問いかけるより先に鼻先へ何かを差し出された。
透明のカバーをかけた、手のひらサイズの青い手帳。反応しきれず目を白黒させていると少女の指が表紙をめくり、身分情報のページを広げる。
そこに貼り付けられた自身の写真に、ミリアムは驚きの声を炸裂させた。
「あっ! わたしのだよコレ!! 探してたの、拾ってくれたの!?」
頷く少女から受け取って中身を検分する。間違いなくミリアムの身分証だ。安堵で腰がぬけかけて、また建物の壁に身を預ける。
「うひゃあ〜、よかったぁ……これがないと
視線が定まらずきょろきょろする癖があるからか、よく観光客や不審者と間違われて身分証の提示を求められるのだ。「身分証を失くしました」なんて言えば怪しまれて取り調べされかねない。
そこでハッとする。まずはお礼を言わなければ。小さな肩を慌てて掴む。
「あっあのありがとうね! ええと、きみは……いや私から自己紹介しないとだね! わたしはね、えっと、あっちのおっきな建物で働いてて……ああ待って名前! 名前はね、」
『ミリアムさん。知ってるよ、名前書いてあったもん』
遮られる。声ではなく文字にだ。突きつけられる手帳には、走り書きの筆記体が綴られていた。
どうして声を出さないのだろう。会話の手段がこれしかないのだろうか。
となると、彼女はまさか。
「ええっと……もしかして、お耳が?」
『……聞こえてなかったら、こうやって返事してない』
「えっ、あっ。そっかぁ」
言われてみればその通りで、自分の頭の巡りの悪さが嫌になる。
こういうところなのだ。当たり前のことも指摘されなければ分からない。手帳にペンを走らせるこの子の方がよほどしっかりしている。
『しゃべれないだけ。不便で、ごめんなさい。昨日の夕方、すれ違ったときに落としてたの。すぐ気づいたけど、わたし声出ないし、追いつけなくて』
そんな文面を見せて、彼女は居心地悪そうに眉を下げる。音なく動いた唇も、きっと『ごめんなさい』と言っていた。
「謝ることないよぉ。むしろありがとうね、わざわざ探してくれたんだね」
労りの気持ちが伝わるよう肩をさする。昨日の夕方といえば、たぶん帰路についたあたり。見たいテレビに遅れそうで急いでいた。落とし物にも気づかないはずだ。
ともあれ彼女はミリアムの恩人、親切には誠意で返さなければ。
「お礼させて! なにか食べたいものない、ご馳走するよ! あっ、でも夕ご飯になってもお腹いっぱいだと困っちゃうね、なにか軽いやつ……」
と、そこまで一人で盛り上がってから気づいた。そういえば大事なことを聞いていない。
碧眼は伏せがちの睫毛に飾られて、歳不相応な落ち着きを宿している。そこに高さを合わせて問いかけた。
「そうだ、お名前! まだ聞いてなかったね、教えて?」
にっこり笑ったミリアムへ応じ、少女も控えめに頬を緩める。手元に新しい文字を書き出していく。
手帳を顔の前へ。名前を告げるページが風でめくれかける。
その向こうに隠れた微笑みは、なんだか少し、痛みを堪えているように見えた。
『エマ。エマ・ケルナーっていうの。ミリアムさん、よろしくね』
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