あけないよるへとつづくみち③

「お姉さん、早く! サッカーの試合始まっちゃいます!」


 急ぎ足が石畳を叩く。急かす声が先導する。十一月の七時ともなれば周囲はすでに暗く、宵闇のような黒髪には街灯の光が滑っていく。

 退勤後、カサンドラと共にたどる帰路の先には、この周辺ではマシな部類のアパートがあった。三階まで階段をのぼって鍵を開け、室内に踏み入り扉を閉じる。年相応の無邪気はそのとき消えた。


「お疲れ様です、クロル少尉。お荷物お持ちしましょうか?」

「いい。夕食の用意するから待ってなさい」

「了解です」


 大人びた微笑で応じるカサンドラ。そのまま連れたって居間へ向かう。彼女がソファに座ったのを見届け、ヒルダは奥に仕切られたシステムキッチンへ向かう。


 やがて聞こえてくるのはサッカーの実況中継だ。しかしカサンドラが熱中している様子はない。代わりに確信があった。きっと彼女の意識は、ヒルダの動向を伺っている。


 共同生活をはじめてからいつもこうだ。こちらを慕う様はわざとらしく、隙間から冷徹な観察眼がヒルダを狙う。ウェーバーに対してはここまで執拗ではない。

 あからさますぎる。それゆえの疑念。こうして怯えの芽を生むことが、彼女は好きなのだろうか。


「……楽しい?」


 それが自分の言葉と気づいた時には、遅かった。

 思わず口を塞ぐ。しかし「はい?」と不思議そうに問いかけられたから後戻りはできない。間をおかず他愛ない文脈に繋げる。


「学校。楽しい?」

「そうですね。普通の学校に通うのは久々なので、変に思われないよう気をつけてます。今のところ疑われていないのでご安心ください。私に同志書記長ホーネッカーを茶化す小噺を喋る子もいるんですよ?」


 くすくすと嘲るように囀る。党の頂点である書記長を揶揄するなど、よほど危機意識が足りないか相手を信頼しているかだろう。カサンドラは順調に同年代の信用を獲得しているらしい。

 ともかく話に乗ってくれたのは助かった。冷蔵庫からチーズとハムを取り出し、パンを切りながら続ける。


「そういうこと、教師には?」

「伝えるのが人民の務めです。でも今の私の役目は、普通の学生のフリをしながら少尉たちのお手伝いをすることですから。見てると腹が立ちますけどね」


 応じるカサンドラは思いのほか饒舌だ。そういう演技なのかとも思ったが、吐き捨てる響きは本音に聞こえた。


「彼らは分かってないんです。自分がどれだけ党に守られてるか。なのにこっそり西のテレビを見て、アメリカの嘘を信じて、党を批判して……馬鹿なんですね。ああいう奴らが社会主義の敵になって、みんなに迷惑かけるんです。

 彼らの言動、ぜんぶ記録してるんですよ。機会があれば本部にお渡しするつもりです。それで指導を受ければ、彼らも帝国主義者ファシストの煽動なんか嘘っぱちって気づくでしょう?」


 その思考回路はこの国においてしごく正しい。だが大半の国民は違うだろう。日々の不便や党への不満、それと現在の穏やかな生活を秤にかけて、だいたいは後者を優先するというだけ。密告すら厭わないカサンドラの正しさはむしろ異端だ。もしかすると体制への反逆を決めた者たち以上に。

 彼女はいったい、どうしてそこまで。


「DDRはいい国なんです。党のおかげでみんな平等に暮らせて、国家保安省シュタージが敵から守ってくれて」


 脚を踏み出す気配がする。声が近づいてくる。振り返ると、カサンドラがキッチンの入り口からこちらを覗きこんでいた。

 視線が合う。成長途上の目鼻立ちで微笑み、ヒルダへと歩み寄りながら告げる。


「だから私、国家保安省のお手伝いができて嬉しいんです。とっても!」


 その輝きは棘の鋭さ。嘘のひとつもありえない純粋さで言いきって、けれど確かに「意図」があった。このまっすぐな忠誠心をヒルダに見せつける理由が。


 ――糾弾、もしくは牽制。


 分かっている。ヒルダは疑われているのだ。だから監視密告に長けたカサンドラが送りこまれてきた。怪しい素振りを見せれば上に通告すると、存在だけでヒルダを脅している。

 こうしてヒルダの胸元に抱きつくのも同じ。逃がさないと、顔の見えない体温が物語る。


「クロル少尉、私も質問していいですか」

「……なに」

「少尉はどうして、国家保安省で働こうと思ったんですか?」


 ぴん、と胸の糸が力一杯に引かれる感覚。直感があった。ここは死線だ。

 回答を誤れば、一拍でも遅れれば、詰む。その確信があったから、ヒルダは瞬きのうちに選択できた。事実を伝える。それだけだ。


「理由なんている? 国民を守ろうとするのは当然のことでしょう」

「わぁ、ご立派ですね! 人民の鑑です」


 カサンドラがこちらを見上げ、いつもの見えすいた称賛で笑顔を彩る。そのまま「邪魔してごめんなさい」と去っていった。さらさら流れる髪の感触だけが首元に残る。


「……」


 かすかな安堵に息をつき、自嘲する。あんな少女が怖いなど馬鹿みたいだ。ただ、厭わしくは思えない。少し羨ましくなるだけ。

 自分もあの子のように在れたなら良かったのに、なんて。


 ***


 いまヒルダ・クロルを名乗る女は、もとは別の名をもつただの市民だった。

 スターリンの死んだ年に生まれ、建国間もない祖国で育ち、東西に分かれたドイツを当然に受け入れた最初期の世代。思春期からは西側に憧れ体制に反発する同級生もちらほら出てきて、気持ちはいくらか理解できた。


 だが時折西側のラジオを聞いていると、その自由さ豊かさが羨ましい反面、ニュースには失業や学生運動や政府への不満の声が溢れている。一方の東は体制批判が許されない代わりに衣食住が保証され、職にあぶれる心配もない。

 どっちもどっちだ――そう世界を俯瞰した気になっていた愚かな少女だった。たぶん、あの時も。


 一九六八年。チェコスロバキアで検閲廃止などの政治改革が進み、「人間の顔をした社会主義」「プラハの春」と密かに持て囃された。

 これがうまくいけばDDRでも自由化が進むかもしれない。そんな期待は、ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構の軍事介入で押し潰される。


 人々は静かにこの帰結を嘆いた。十五歳のヒルダ自身、抗議のデモで逮捕者が出たとか、ビラが撒かれたとかいう噂も耳にしたはず。だが特に心動かされなかった。それどころではなかったからだ。


 好きだった少女の兄が逮捕された。チェコスロバキアの「反共政権」と繋がった容疑で、西のスパイとして。


 物流トラックの運転手だった。担当は主に東ドイツ南部カール・マルクス・シュタットとチェコスロバキアを往復する、要は国境を経由するルート。チェコ語の地下新聞と、東ドイツ国内の反体制派に対する支援金と思しき現金がトラックから見つかって逮捕されたという。

 風変わりではあった。教会通いをしていたし、兵役でも武器を持つことを拒んで非武装の部隊に入ったと聞く。チェコスロバキア軍事介入の件でもデモを計画していたらしい。

 だが悪い人間ではないのだ。変わった考え方も「よりよい社会主義」へ真剣に向き合っているがゆえと、想いびとは誇らしげに語っていたから。


 彼女はずっと泣いていた。新聞の記事で、「西の支援を受けた反共勢力に唆された」という兄の自供で、課せられた懲役で涙が枯れるほど泣いていた。それまでの日常が薄氷の上に成り立っていたと、ヒルダはこのとき気がついたのだ。


 ――守らなくては。

 東ドイツに生きる人々を、この国に巣食う敵の手から。


 あの娘の兄は悪くない。祖国をより良くしたい正義感につけこまれただけ。社会主義国家ひがしがわを浸食しようとする、資本主義国家にしがわの謀略によって。

 DDRが完璧とは思わない。物資不足は目立つし自由選挙もないし不自由だらけだ。だがその中でみな助け合い、平等を重んじて生きている。そんな生活を壊される謂われはなかった。


 この国の穏やかな日々は自分が守る――それがヒルダの決意だった。勉強とスポーツに打ちこみ、入党を目指し、大学を卒業する年に国家保安省のリクルートを受ける。

 数年職員として勤めたのち身体能力の高さから「特殊任務」に回され、ヒルダ・クロルという別の人間として生きることを選ぶ。厳しいが充実した仕事だ。この国の人々が守られるならそれでいい。


 その認識が転回したのは、つい数ヶ月ほど前だった。

 一通の茶封筒が届いた。郵便受けに直接入れたらしく消印も差出人の名もない。表には「Kein Geräusch音を立てるな」と鉛筆で薄く記されていた。警戒しながらも、部屋で極力音を立てずに開封する。


 その中身は、ヒルダ・クロル少尉という存在を根底から覆した。


 写真がいくつか入っていた。なにかの書類を接写したもの。日付は一九六八年、ヒルダが想いを固めた時代。記載されているのは、あの娘の兄に対する陥穽ワナの計画だった。

 立案書、議事録、最終承認書……文面は違えど、告げているのはひとつ。チェコスロバキア反共政権に対する国民の危機意識向上のため、適当な生贄を差し出す。

 その白羽の矢のひとつが立ったのが、兵役を拒み、体制に批判的な言動が多く、なにより日常的にチェコスロバキアとの行き来があった、あの娘の兄だったのだ。

 自供もお得意の「尋問」で引き出したもので、家族も逮捕すると脅されたのが決定打だったらしい。そう数十枚の写真を夜通し読みこんで、翌朝を迎えるころ、ようやくヒルダは理解する。


 この国の人々を脅かすのは、敵の脅威などではなかった。

 いや。この冷戦の時代だ、西側スパイや工作員の存在はヒルダも経験で理解している。だが国家保安省が守るのは国民ではない。無辜の国民を陥れてでも、彼らは体制だけを守りたいのだ――。


 そう知ってしまって、想いも願いも踏みにじられて、ヒルダは空っぽの心で生きている。何も選べないまま迷い続ける。

 この国に守る価値はあるだろうか、と。

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