あけないよるへとつづくみち④

 トロイアの王女カサンドラは、不運な女だ。


 太陽神アポロンに見初められ、予言の力を授かったまではよかった。しかし「アポロンに捨てられる」未来を視た彼女はアポロンを拒み、激昂した彼は呪いをかける。カサンドラの予言を誰も信じることなかれ、と。

 迫り来る戦争。祖国の陥落。破滅の未来を知りながら、カサンドラは警句を誰にも取り合ってもらえず、なにひとつ変えられない。最後には敵国の王の妾とされ、その妻に王ともども殺される――


「……ひどい話」


 カウンターで呟いて、本を閉じる。

 店舗にはヒルダ以外いない。神話や民話の類は棚一列ぶんほどしかないが、そのうち一冊を適当にめくっていたら目当ての話は見つかった。


 ギリシャ神話のカサンドラ。予言の力と戦争に翻弄された姫君。

その生涯を知ってしまうと、なおさら少女がこの名を使う理由が分からなくなってきた。


 彼女もよくは知らないのだろうか。ヒルダも「神話に出てくる予言者」くらいにしか思っていなかった。単に自身の密告を「予言」になぞらえた、少女らしい高慢というだけかも。

 そう結論づけてウェーブヘアを耳にかけ、いつの間にか止まっていたレコードの針を戻す。オペラがまた流れ出す。本を棚に戻したところで、扉の開く気配がした。


「ヒルダお姉さん」


 少女の声が鳴りわたる。人懐こい笑みを浮かべ、黒髪に埃と光の粒子を転がし、カウンターをぬけて歩み寄る。


「お店手伝います。いま店長さん出てるでしょう?」

「いいよ、別に。客もいないし」

「一人で寂しくないですか? お話ししましょうよ、お姉さん」


 暗に逃がさないと言われていた。観念し、隣り合わせでカウンターに座る。拒否することはできない。


 ――国家保安省シュタージはおそらく、ヒルダが事件の真相を知ったことに気づいている。


 この少女が送りこまれたのが何よりの証拠だ。カサンドラは監視役。妙なことは考えるなと、そう釘を刺されている。

 その確信をあかすよう、カサンドラは瞬きを減らし、じっとこちらを覗きこむ。


「私、お姉さんのこともっと知りたいです。お姉さん物静かだから、あんまりお喋りできないのが寂しくて。

 そうだ、お姉さんから聞きたいこととかないですか? 私ばっかりお話ししてますし。知りたいこと、ねえ、ありません?」


 言葉は無駄だ。これは釣り針を垂らされているだけ。疑いを与えこそすれ信頼を回復することはできない。迂闊な発言ひとつが破滅に繋がりかねない、分かっている。


 なのにどうしてヒルダは、こんなことを口にしてしまうのだ。


「……どうしてこの仕事に就いたのか」

「はい?」

「きみが私に聞いたことだけど。逆に問いたい」


 やめろ。理性が叫ぶ。これは一線を越えかねない。カサンドラに疑念をもたらすなど、この局面では致命的なのに。

 けれど喉も舌も、衝動も止まらない。椅子から小さく身を乗り出す。吐息のふれる距離でカサンドラの瞳を見つめる。


「きみはなぜ、こんなことを?」


 問いに、少女の笑顔はこわばり、双眸だけがヒルダの影を映して揺れた。


 彼女を動揺させる意図はない。本当に。カサンドラについての資料には、父と姉が反体制活動に関わっていたとあった。そんな家庭に生まれてなぜ党への忠誠を貫いたのだろう。なにが彼女を突き動かすのだろう。


 DDRの人々を守りたいヒルダの気持ちは本物だった。けれどもう分からないのだ。どんな気持ちで祖国に尽くし、どんな気持ちで国家保安省に身を置けばいいのか。好きだった女の子やその兄を陥れたこの国を守ることが、本当に誰かを守ることに繋がるのか。


 だから知りたくてならない。かつての自分と似た彼女の、その根幹には何がある?


「……なんで、って。そんなの、決まってるじゃないですか」


 思いがけないヒルダの無謀に戸惑っているのだろうか。カサンドラの唇がわななき、睫毛は痙攣気味に震えている。

 言葉には意識も作為も宿らないまま、喘ぐ合間の呼気のようにこぼれ落ちた。


「私は、わたしはだって、ただ――」


 続きはオペラの高音と、扉の開く音にかき消される。


「おや、二人揃って店番か。党からの給料袋が足りるかな」


 目を向ければ、悪戯っぽく歯を見せたウェーバーがいる。冷たい風が店内に吹きこみ、陽の匂いが鼻先を撫でた。

 停滞していた空気が動き出す。少女はカウンターを立ち、彼のもとへ駆けていく。まるでヒルダから逃れるように。


「おかえりなさい、店長さん。お上着お持ちしましょうか?」


「気が利くね勤労少女。そんなに報せだ」


 上着を渡しながらウィンクし、だが少女へ向けた言葉は「書店の店長」のものではなかった。

 カサンドラも気づいたらしい。横顔には不遜な微笑みが戻っている。ヒルダに向かって頷き、ウェーバーは廊下への扉を親指で示した。


「任務の話が届いた。同志諸君、書庫に集合したまえ」


 ***


 米軍兵舎爆弾事件、ミュンヘンオリンピック事件、ルフトハンザ航空一八一便ハイジャック事件――西ドイツでは度々テロ事件が発生し、善良な市民を震え上がらせている。


 一方、DDRでテロ事件と聞いても首を傾げる者が多いだろう。国内に張り巡らされた監視網により、反体制行為の芽は残さず摘まれている。テロなどもっての外だ。

 しかし、これはあくまで民間レベルの話。プロの敵国工作員による破壊工作ともなれば、網をすり抜けることもままある。そして党と社会主義国家の威信に賭けてそんなことを公にはできない。国家保安省の監視が片手落ちと認めるようなものなのだから。


 ゆえに必要とされたのは、秘密警察のさらに暗部。武力、あるいは暴力を以て敵を闇に葬る特務機関。

 ヒルダたちが属するのはそうした部隊で、つまりは党のため命を捧げた社会主義の護り手チェキストだった。


「まず概要だけ話そう。国内に『連帯ソリダーノシチュ』に感化された反体制派がいる。今のうちに潰しておけ、とのことだ」


 埃と日焼けした頁の匂いに満ちた『書庫』で、机についたウェーバーはそう切り出した。


 十一月も半ばの今の時期、空気の籠もったこの半地下室は比較的暖かく過ごしやすい。しかしカサンドラはまだ慣れないらしく、澄まし顔でヒルダの隣に控えながらも、むずがゆいのか時々鼻を押さえている。先の書店で見せた怯えはもう残っていない。

 あまり彼女を伺っているのも不自然だ。ウェーバーの話に集中し、問いを返す。


「『連帯』……というと、ポーランドの?」


 ウェーバーは鷹揚に頷く。

 去年の夏、ポーランドでは物価の引き上げをきっかけに労働者のストライキが発生した。やがて彼らは党主導の労働組合を捨てて自分たちの手で組合を組織し、自主管理労働組合『連帯』として結実する。


 その活動はポーランド全土に広まった。現時点では政府にも認められた存在だが、急進化した指導部は党との軋轢を強めている。DDRも国内への運動波及を警戒していた。その不安が的中したらしい。


「最近はポーランド政府の圧力がキツいようでな、党への批判色が強い。そうしたところが反体制派にも魅力的なんだろう」

「しかし、もとは労働者グループの活動でしょう。武力行使の必要はありますか」

「事情が事情だ。つい先日、アメリカの工作員がポーランドの連中引き連れて国内の反体制派とパイプを作らせようとしていたらしくてな。それ自体は別の部隊が処理したらしいが……放置された反体制派グループの諦めがどうも悪いらしい。他のパイプを探しているんだと。これ以上余計なことをする前に処理しておけとのことだ」


 ウェーバーはふう、と息をつく。なるほど理解はできた。『連帯』の活動に賛同し、あまつさえ敵国工作員の手も借りようとするグループなど、放ってはおけないだろう。


「要は、我々がやるのは残飯処理だ。気は乗らんと思うが承知してくれ」

「承知しました」


 頷く。気が乗る乗らないは関係なかった。必要なことをするだけだ。

 こちらの返事を見届けると、ウェーバーはその隣に視線を移す。


「加えて、わざわざ来てもらったが……カサンドラ、君は留守番だ」


 声の穏やかさとは裏腹に、言葉には決定事項の響きがあった。

 カサンドラはゆるりと微笑む。多少戸惑い気味な困り顔で、しかしはっきりと意思を主張して。


「ええと。お気遣いありがとうございます。けど私も訓練は受けましたし、お役に立てると……」

「悪いが、これは仕事だ。命を奪い合うことだってある。戦力も足りているしね、子どもは連れて行けんさ」


 言って肩をすくめるウェーバー。当然の采配だ。いくら訓練を受けて選抜されたとはいえ、十代前半の少女である。

 連れていくだけでもリスクだし、怪我ならまだしも死なせたらそれこそ陰謀を疑われる。邪魔に思ったヒルダが始末したのではないか、などと。ウェーバーもそこを懸念しているのだろう。面倒を避けたいのは彼も同じだ。


「気持ちは有り難いが、任務を終えた我々を待ってくれている方が嬉しいとも。少尉の部屋で休んでいたまえ」

「……はい、了解です」

「結構だ」


 少女も今度は素直に頷き、ウェーバーは満足げに笑む。この場はこれまでと言わんばかりに席を立ち、本の山を迂回してやってきた。すれ違いざまに肩を叩かれる。


「決行は二週間後だ。今回も頼りにしているよ、クロル少尉」


 その期待を、今は少しだけ気詰まりに感じた。

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