あけないよるへとつづくみち②

 ドイツ民主共和国――東ドイツDDRは、穏やかな国家だ。


 ソビエトを模範とする労働者と農民の国。安定した経済力を誇る社会主義の優等生。党の教えのもと、人々は平等を尊び、たゆみない労働で人民全体に奉仕する。

 心の豊かさでは飽食の資本主義国家より遥かに上だ。誰もが職に就き、誰もが食べていける生活が保証されている。

 この平和を壊そうとする者は、許されてはならない。それがヒルダたちに与えられた金科玉条だった。


「さあ、勤労人民なかまがまた増える。喜べヒルダ・クロル同志少尉」


 ヒルダに一冊のバインダーを手渡しながら、上司の男はおどけたように笑った。


 デスクで構えるさまはいかにも精力的な紳士だ。彫りの深い顔立ちを、短く整えた髭が強調するように縁取っている。瞳には四十代らしい自信と落ち着きがあった。脂肪の薄い、引き締まった体格を目にすれば、国家人民軍NVAの元将校という来歴にも頷ける。


 そんな洗練された佇まいとは裏腹に居室は雑然としていた。本の山、あるいは塔が部屋中に林立し、机へ向かうルート以外に足の踏み場はない。半地下では貴重な窓すら半分遮られていた。埃とくすんだ空気が否応なく肺を淀ませる。

 とはいえヒルダも慣れていた。そんなことよりバインダーを開いた先頭、資料の一ページ目に載っていた写真の方が重要だ。短いウェーブヘアに手櫛を通して問う。


「ウェーバー大尉。これは子供では」

「子供だな。で?」

「資料を間違えたのでは」

「知らんのか? 『党、党、貴方はいつも正しい』!」


 ドイツ社会主義統一党SEDを讃える歌を口ずさむウェーバー。東ドイツは事実上SEDによる一党独裁国家だ。何を置いても彼ら、つまり社会主義への忠誠心が重要となる。

 それを分かっていてなお、ヒルダは問いを重ねずにはいられなかった。


「こんな仕事場でも、ですか」


 自分たちの組織で日々行われている業務を思い起こす。ひとつひとつは些細なことだ。一方でこの国を左右するほど重大だから、子供にしろ何にしろ、半端な人間を加える余地はないはずだった。


 絶え間ない監視で、盗聴で、検閲で、尋問で、密告で。

 社会主義の敵を防ぎ、探し、暴き、逮捕し、根絶する。


 その手はあらゆる公的空間に及んだ。西側諸国への出国申請を出した人々から、現体制に反旗を翻す者にまで。善き国民を守護するために、国民すべてを疑い裁く。


 国家保安省シュタージ――この国の秘密警察にして諜報機関。体制を支える支柱、党のための剣と盾だった。


「ひとまず資料を読むといい。話はそれからだ」


 ウェーバーは新聞に目を落とす。指示通りにしないと進まないから資料をめくった。

 健康状態、旅行履歴、親類友人の名前と関係性、これまでの観察記録。数十ページにわたる情報を流しこみ、写真の少女のデータを読み解く。


 一九六八年生まれの十三歳。八歳の時分、反体制活動に関わった姉と人民警察官フォーポである父を。その後間もなく母親の育児放棄により国営孤児院に収容される。

 そこでも党へ並外れた忠誠心を見せ、周囲の反革命的言動を次々と報告する。素質を見込んだ将校により極秘の養護施設に移され、将来の国防を担うエリートとなるべく教育を受ける……


 バインダーを閉じる頃には胸焼けしていた。嘆息気味に資料を返す。


「……結構な経歴で。ですがこの年頃の女子は告げ口や噂話が好きなものですよ。ただのお喋り屋では?」

「おや、それは厄介。この香水がモテる秘訣でね。配合をバラされたくはない」


 そうウェーバーは笑うのだが、距離のせいか並み居る古本に押し負けてか、香水とやらはまるで分からない。

 あるいはすべて冗談なのだろうか。笑みから茶目っ気を取り除いて上司は続ける。


「だが心配無用だ。選抜の最終試験は『数ヶ月間接触した監視対象とともに拘置所に入れられ、監視対象が自白しない限り自分も尋問される』という内容らしいが。これには非常口が用意されていた」

「非常口……」

「ああ。『耐えきれなくなったら尋問官に合言葉を言え、そうすれば試験は中止する』と言い含めていたようだ。実際に何人かはこれで脱落したと聞く。だがこの娘は一週間耐え抜いた上で合格した。つまり、言うべき時と相手を理解しているということだ」


 拘置所における政治犯の扱いは知っていた。長時間ぶっ続けの質問責め、期間も知らされない拘留、睡眠さえ奪われる独房生活……自白するまで丁寧に精神を壊していく。それを耐えたとあれば、つまりウェーバーの言う通りなのだろう。


「……しかし」


 その上でなお疑念が募る。ヒルダたちの任務は「特別」なのだ。子どもを配属させる理由などないに等しい。

 同じ答えに至ったはずのウェーバーは、しかし肩をすくめるだけだ。


「本人も自負があるのだろう。だからこんな名を名乗る。

 心強いと思わんか? 我ら社会主義の護り手チェキストとして、これ以上の逸材はないだろうよ」


 口端の片側だけを歪めて笑う。これが問いを受け付けないサインと知っていたからヒルダも追及を諦める。

 黒髪の少女が東ベルリンに降りたったのは、それから二週間後のことだ。


 ***


 「カサンドラ」。少女は自身をそう名付けたらしい。

 民間人に潜む国家保安省の協力者――つまり密告者は、コードネームを自ら決められる。少女も「選抜」の一環で名前を決めたらしく、今なお裏ではこう呼んでほしいと希望していた。表で名乗る偽名は別にあるのに奇妙な話だ。それだけこだわりがあるのだろう。


 古い神話の予言の女。その名を掲げ、少女は無邪気を模して笑う。


「あっ、ヒルダお姉さん!」


 呼びかけに、一切の動揺を悟られないよう振り向いた。

 案の定カサンドラだ。級友らしい少女たちと手を振って別れ、夜色の髪を木枯らしに乱して駆け寄ってくる。一般教育総合学校POSの帰りだろう。七年生ともなれば課外実習などで忙しいはずだが、今日の帰りは早いらしい。


 指令通りに彼女を迎え入れてから二ヶ月ほど経っていた。慣れるにはまだ足りない。十五歳も離れた少女を前にして、ヒルダは自然な距離の取り方に苦心している。


「おかえり……今日はもう帰り?」

「はい! お姉さんはお買い物ですか?」


 煙草を靴底で潰して頷く。近場のスーパーコンズームに行っていた。買い物バッグを担ぎ直すと、カサンドラが逆の腕に抱きついてくる。そのまま連れたって歩いた。


 東ベルリンの一角・プレンツラウアーベルクはやや寂れた住宅街だ。大戦の空襲でもたいした被害を受けなかったため、古式ゆかしい建築物が今でも多く立ち並んでいる。

 だがそれらの修復・改築が疎かにされてきた結果、玄関飾りファサードは見る影もなく摩耗し、外壁は剥がれて内の煉瓦を露出させ、窓の手すりは錆びていくらか外れていた。

 ゆるやかに擦り切れる街区を行き交い、老若男女は日常を呼吸している。いつもの東ベルリンの光景だ。


「英語、難しいんですよね。ロシア語は五年生からやってますし慣れましたけど……お姉さんはどう勉強してました?」

「私はフランス語選択だったから」

「あ、そうなんですね。私もそうすればよかったかなあ。そしたら移民の人ともお話できますし」

「フランス語が話せるベトナム人、少なくなってきたって聞くけど」


 空虚な会話を交わしながら大通りを外れると、曲がり角に白漆喰の建物が佇んでいる。やはり老朽化の目立つアパートだ。一階には店舗が入っており、画集や古い文芸書を陳列するショーウィンドウが、その客層を物語っていた。


 書店『ローザ・ルクセンブルク』。ヒルダの勤め先――秘密警察の隠れ蓑だ。


 客が使う表玄関は使わない。いったん中庭に回って裏口の扉を開ける。廊下は窓がないこともあって薄暗い。休憩室の冷蔵庫に買い出しの中身を置き、ハンガーに掛けてあったエプロンを身につける。

 通学カバンを置いたカサンドラとまた廊下に出て、最奥の扉を開けると、そこは通りに面した店舗だ。どうやら客はいないらしい。壁一面の棚には分野ごとに本が並べられ、名前の分からないオペラの曲が延々と流れている。カウンターで新聞を読んでいるウェーバーの趣味だ。


「おかえり。いつも助かるよ」

「お気になさらず、店長。ついでなので」


 ウェーバーの分の食料品も調達するのはいつものことだ。政府の計画経済と市民の需要が釣り合わないこの国では、何かしらの品が入荷するとすぐ行列ができる。それを友人知人の分含めて買うのも他愛ない互助の範疇だった。

 背からカサンドラが顔を出す。もじもじと、気恥ずかしそうに「従姉の上司」にあいさつをする。


「店長さん、こんにちは。今日もお世話になります」

「いらっしゃい。ああ、お隣からいただいたクッキーが休憩室にある。宿題しながら食べるといい」

「ありがとうございます! お手伝いとか、いりませんか?」

「お姉さんが働き者だからね。学生は学生の本分を果たしたまえ」


 にこやかに頷くと、カサンドラは裏手に去っていく。「お姉さん頑張ってくださいね」と抱きつくのも忘れずに。

 そうして廊下への扉が閉じると、ようやっと人心地つくことができた。それを読み取ったようにウェーバーは広い肩を揺らして笑う。新聞をカウンターに置き、レコードを別のものに替えていく。


「結構な懐かれようだな、微笑ましい」

「店長もでしょう」

「いや? 君ほどではないだろう」


 意味ありげな眼差しを向けられる。そこにある真意を理解できないほど、ヒルダ・クロルという女は純朴ではなかった。


 やはりという納得が半分、知りたくなかったという臆病が半分。勘違いではない。カサンドラの眼はヒルダへ向けられている。

 そこから考えられる可能性は、あまり多くはなかった。


 押し黙っているうちに新しいレコードが回りはじめる。知らないオペラ曲が流れだす。精悍な頬を撫でながら、ウェーバーはまた新聞を広げた。


「思春期の女性はデリケートだ。嫌われないよう、互いに気をつけるとしよう」

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