第五十六話

 レニの作戦は完璧だった。


 フレーゲルに盗聴器を手渡し、エレナ一行を監視している西の人間にさりげなくその周波数を教える。モールス信号で都度発信される居場所は西の諜報局にも筒抜けとなり、たとえエレナたちが監視を撒いても追いつかせることができた。

 西側も罠を疑っていたからか動員は控えめだったが、結果的にはああしてシュナイダー捕縛の現場を目撃したのだ。戦端が開かれるのは当然だった。

 もっとも、そこまで劇的な火種がなくともレニがどうにかするつもりだったが――なんにせよ戦闘状態に陥った以上、レニの作戦は期待通りの進行を見せていた。


 あとは流れ作業だ。西の人間に殺されるならそれでいいし、それが叶わないようならフレーゲルに注意を向けさせ足止めする。GP-25グレネードランチヤーでエレナのそばに催涙弾を撃ち込む。その際発生する煙は赤外線照射式の暗視スコープが解決してくれた。

 行動不能になったエレナを撃ちぬいて、それで終わりだ。終わりのはずだったのに。


 レニの弾丸が捕らえる一瞬前、エレナの姿は弾道から外れた。


「――――はあ?」


 思わず漏れ出た声は男の子のような低音だった。だがそれさえも気にならない。スコープに映し出されるモノクロの景色を前に、レニの頭脳は状況把握を急いでいる。


 エレナは健在。先ほどいた場所から数歩ほど退がっており、ふらつく脚がたたらを踏んでいる。

 左肩のあたりを負傷しているようだったが、あれは先の戦闘によるものだろう。他に傷はない……狙撃は失敗だ。


 弾道を読まれた? ありえない、催涙の効果は続いている。あれでこちらの居場所が分かるはずがない。

 ならばレニの狙撃に問題があった? それこそもっとありえないだろう。エレナまではたかだか百メートルと少ししかない。相手の無力化もできている。これまでの経験上、今の状況で失敗する可能性は限りなく低かった。


 だったらどうして――そう白黒の視界を巡らせてレニが捉えたのは、もうひとりの少女の姿だった。


 フレーゲル。エレナに痛めつけられていた場所からは移動していた。レニの弾道に近い。今まさに構えを解くところで、その銃口はといえば、先ほどまでエレナがいた地点に向けられている。それを目にした瞬間にパズルが解けた。

 フレーゲルが先にエレナを殺そうとして、かわされた。それによってレニの狙撃も外れた。レニの作戦を崩したのは、あの小娘だったのだ。


「……なによ」


 心地よい万能感に水を差され、ごぽりと湧き立ったのは底なしの苛立ちだ。

 唇がわななき、悪態は呆然と口をつく。声音を繕う余裕もない。地を這うような呪詛が、次から次へとあふれかえってくる。


「なに、なによ、なんなのよ。なによあれ。あのクソガキ、自分のやったこと分かってるの?」


 ライフルを構える手に力が入る。引き金に指がかかったままなら確実に引いていた。銃把がみしみしと軋み、木製のハンドガードなど今にも罅が入りそうだ。

 だが愛銃の悲鳴など今のレニの耳には入らない。ただ自身の恨み言だけが取りこまれ、心をかき立て、また憎しみを倍増させていく。


「レニの言うこと聞いたら殺してあげるって、あれだけあれだけあれだけ言ったのに。

 あんな弱くちゃどうせ殺せないんだからレニが手伝ってあげたのに。なに考えてやがるのよ。ほんと馬鹿ばっかりだわ、ありえない」


 爆発的に膨れ上がる怒り。思い通りにいかない苛立ち。見える景色は、あの嫌いなものばかりだった日々と同じように歪んでいった。

 ならその先にある結論も同じだった。憤りに燃える全身をなんとか制御し、構えを正す。

 スコープでまたエレナを補足。今もまだ、狙える。


「もういい。いいわよ、役立たずなんていらない。エレナもフレーゲルもふたりとも、まとめてここで死になさいよ」


 呟いて、人差し指を引き金にかけようとした。そして撃とうとした。だがいずれも叶わなかったのは、強烈な力で背後から引き剥がされたからだ。

 ライフルが遠ざかり、両脇から固められて拘束される。叫ぼうとした口は大きな手に塞がれた。


 敵襲――その言葉が頭をよぎる。

 激昂のあまり周囲警戒を疎かにしていた。あのいかにも愚鈍そうな眼鏡の女ではないだろうし、西の工作員か。西にレニたちの存在がバレるのはまずい。なんとか切り抜けなければ。

 そこまでが高速で頭を巡ったところで、「お静かに」と囁く男の声が焦りをせき止めた。


 聞き慣れたものだ。口元から手を離されると、草の匂いに混じってぬるい肌の臭いが鼻をつく。振り向けば案の定、見知った禿頭の巨漢がいた。

 クライン。適当な理由をつけてホテルに置いてきた彼が、レニを暗がりに引き込んで羽交い締めにしている。


「ちっ……離しなさいよクライン!」

「できかねます」


 クラインは短く応じるだけで力を緩めない。それにも苛立ちが加速した。

 どいつもこいつも使えない。拘束から抜けだそうともがきながら、思い切り眉を歪める。


「はあ? レニの言うことが聞けないの? いいからさっさと……」

「少佐からのご命令です」


 その言葉に、全身の細胞が凍りついた。


 少佐。おかあさま。レニのいちばん大事で、いちばん好きなひと。

 どうして今彼女の名前がでてくる。どうして、なぜ、


 足元から崩れおちていく感覚のなか、それでもレニを支える腕や胸板は腹立たしいほどの現実感をともなっていた。レニに言い聞かせたいのかとどめを刺したいのか、クラインはぼそぼそと余計な語を継ぐ。


「これ以上は少佐への造反になります。退きましょう」


 造反。決定的な言葉だ。胸で荒れ狂う感情を処理できないまま、しかしレニは力なく頷くしかない。


 それを確認したのかクラインはそっとレニを解放した。巨躯を低くしてライフルを回収し、レニの側に戻ってくると手早く片付ける。レニを丁重に抱え上げその場から駆けだした。

 何もかもが勘に障った。エレナも、フレーゲルも、クラインも。どうしてこうもレニの邪魔ばかりする。誰も彼も大嫌いだ。


 だがそれ以上にレニを支配するのは、唯一愛する母親に自らの計画を知られていた恐怖であり――


「ほんと、ほんとにもう、なんなのよ……」


 彼女に嫌われてしまうのではないかと怯える、幼い少女の心だった。

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