第五十五話

 白煙は幽霊のように闇をぼかす。たった一箇所から噴き上がっていくそれは舞台装置じみて不自然で、その真ん中にエレナは捕らえられていた。

 ふらつく足が下手なステップを刻んで、煙の薄い場所を求めてさまよう。金の髪をふり乱す様は暴れる獣のたてがみのようにも見えた。危うい足取りで煙の出所を蹴飛ばし、明後日の方向へ咆哮する。


「――っ! フレーゲル、走れっ!」


 そのあとは苦悶の呻きしか漏れてこない。両の目は腕で隠されていたが、おびただしい涙が頬を濡らしていた。見たこともないほどきつく歯を食いしばっていて、その苦痛のほどが窺い知れる。

 催涙弾。すぐ突き飛ばされたフレーゲルはともかく、エレナは直撃を受けたらしい。あれでは前後すらろくに分からないだろう。この次に訪れるものを、フレーゲルは否応なく理解させられた。


 ――わたしがエレナを殺してあげるから。


 エレナは死ぬ。レニに殺される。

 状況から見ておそらく狙撃だ。今まさにエレナに照準を合わせ、その額を狙っているのだろう。


 もしかするともう引き金を引いているのかもしれない。次の瞬間にもあの頭が吹き飛んで、金髪は血に染まっていくのかもしれない。そう思うと息もできないくらいに鼓動が逸った。


(やっとだ。やっとお父さんとお母さんの仇がうてる。ひとを殺さないでって願いもかなう。イングリットといっしょに西に行って、ずっと笑って暮らせるんだ。これでいい、いいんだ)


 分かっている。この選択はなにより正しい。

 エレナはここで死ぬべきで、フレーゲルは手を下すべきではなくて、悲しいことはすべて忘れて西に行ってしまうべきなのだ。


 一番輝かしい、希望に満ちた未来。それがもう手の届く場所にある。


(これでいいんだ、これで……)


 心臓がうるさいのは、楽しみで胸が高鳴るからだ。

 身体が震えているのは、歓喜に打ち震えているからだ。


 フレーゲルを待ち受ける、安堵と達成感と喝采。ことが終わればこの緊張感も溶けて消えて忘れるだろう。すべてが歓びに変わるのだ。ほどなく、エレナがレニに殺されさえすれば。


「……っ」


 けれど、ただひとつ。


(……いや、だ)


 ただひとつの感情が、絶対の正しさを拒絶した。


(やだ、やだ。やだやだやだ。なんでこんな気持ちになるの。なんで、おかしいよ、やだ)


 偽りない心が決壊する。嫌だ、待って、許さない。否定ばかりがあとからあとから溢れかえってきて、次々と論理を塗りつぶしてゆく。


 ――お父さんとお母さんが、本当にそんなことを望むと思いますか?

 ――お父さんもお母さんも、きっとあなたを責めたりしない。

 ――あなたが幸せになれるよう、悔いのない決断を祈っています。


 イングリットのぬくもりを思い出す。彼女だけではない。父と母もフレーゲルの幸福を願っていたはずだ。

 ならばそれが一番正しい。正しさを選び続けた彼らの願いは、フレーゲルが叶えなければ。


 ――手伝ってあげよっか、あなたの復讐。

 ――わたしの言うとおりにすればいいの。

 ――わたしがエレナを殺してあげる。


 レニの誘惑が囁く。亡命を選ぶとしてもエレナだけは許せない。けれどフレーゲルは弱すぎて、誰も彼女が手を下すことを望まない。

 ならばレニに縋るべきだ。彼女ならエレナを殺せるかもしれない。父母やイングリットの願いとエレナの死……双方を叶える道筋は、これ以外にないのに。


 なのになぜ。フレーゲルはどうして、目の前の景色を拒んでいる?


 ――空っぽのお人形になって、なにか望めるつもり?


 エレナのあの表情が、甦る。

 道に迷った子供みたいな頼りなさ。フレーゲルを教え諭すようでいて、なにかを知りたがっているようでもあった。大切なひとたち、ただひとりの「協力者」の言葉を打ち消すように、大嫌いな声があとからあとから反響していく。


 ――なにも考えないでいればなにもないんだよ、そんなのに価値なんてある?

 ――諦めて誰かの言うことに従えばいいとか思ってる?

 ――こんなんじゃ私は死なない、殺されない。


 無機質に凍りついた言葉たちがフレーゲルをなじる。あの時はただただ気圧されていたが、思い起こすにつれ腹の底を掻き回されるような苛立ちが募っていく。この気持ちをフレーゲルは嫌というほど知っていた。

 三年間。それだけの時を生きるあいだずっと、フレーゲルはこの感情と共にあったのだ。


 ――とんだクソガキフレーゲルじゃないか、反革命分子の娘さんは。


 ああ、これがはじまりの言葉だ。

 何も知らない、ただ平凡に幸せだった少女が「フレーゲル」になった最初の引き金。


 それを境にエレナの表情が、声が、触れた肌の感触が、めまぐるしくフレーゲルの意識を上書きしていく。神経が無遠慮に爪弾かれ、呼吸の逸る感覚はいつしかまったく別のものに変わっていた。


 ――フレーゲルはちがうって、おもってたのに。

 ――ほんと、フレーゲルはいいなあ。 

 ――お前の、フレーゲルの復讐はこんな。

 ――私を殺すんだろ、フレーゲル。


 いくつもの記憶。混ざりあっては溶けあって、五感のすべてを巻きこみながらリフレインする。


 フレーゲル、と呼ぶ声がひとつに重なり、たったそれだけで、答えはほどけるように羽化した。


 ――ちがう。


 唇が刻む。声が出ないことをこれほどもどかしく感じたことはない。

 ちがう、ちがう、ちがう。同じかたちを繰り返しつぶやくたび、あちこちに散らばっていた感情がひとつながりになっていく。握りしめた心音は痛いくらいに高鳴っていた。


(ちがう。こんな終わりかた許さない、どんなに正しくたってえらべない。わたしのしたかったことは、こんなのじゃない……!)


 だってこれは、フレーゲルの怒りだ。他の誰でもない、フレーゲルというただひとりの少女の憎しみなのだ。


 あの日、両親を殺された。信じていた人生を狂わされた。絶対に許さないと誓った。

 父母のためだけではない。フレーゲル自身があっけなくすべてを奪われた。だから誰より望みつづけてきたのだ。この憎悪と、悲嘆と、悔恨と、尽きることない激情のすべてをもって。


(エレナを殺す、って、決めたんだ)


 復讐を。


 フレーゲルのこの手で。力が足りなくとも叶うまで。こんなに悔しいのなら、諦めるなどもう二度とするものか。


 そう、たとえ正しくなどなくても。

 ずっと幸せになんてなれなくても。

 やさしい人々のやさしい願いを、どれだけ裏切ったって。


(これは、わたしの復讐なんだから――!)


 そう胸に刻んで見据えた景色では、あらゆるものが自明だった。


 状況は先と寸分違わない。エレナは催涙ガスで行動不能。今にも飛んでくるかもしれない銃弾は確実に彼女を狙う。この前提は変えられない。ならば、フレーゲルが先手を打つ。


 痛みを無視して立ち上がる。ワルサーPPの動作を軽く確認。大丈夫、いける。

 レニの射線は分からない。しかし催涙弾の撃ち込まれた方向や風向きからある程度の推測はできた。出来うる限りそこに近づき、ことさら音を鳴らしてワルサーを構える。その向こうにはエレナしかいない。


 彼女は見えないだろう目をほんの少しこちらに向けて、それだけで繋がれた気がした。あとは鉄と火薬が伝えてくれる。たった十グラムにも満たない弾丸に決意と決別、なにより強い殺意を籠めて。


 フレーゲルはあの日以来、二度目の引き金を彼女に引いた。

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